ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
- ページ
- 60/92
このページは ac_cho_0008-3_takanabe の電子ブックに掲載されている60ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ac_cho_0008-3_takanabe の電子ブックに掲載されている60ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ac_cho_0008-3_takanabe
世第却表近見ら領内れ生口口品る産物日や製品で{出領移一一一一一一出四六種-種O種七種と種そ甘陶思?箸の味イヒ器他製鉄われ領外籾薬種文等品のるよ品り目領内具日衣用料新t移た貨入ば類さ」加れ八- -類=すこ匹l八f霊O種六種と4重第4編が少ない。港としての蚊口浦は美々津とともに、高鍋落にとって極めて重要な役割を担っていたことを示している。鵜戸大明神は、貞享寺社帳には、鵜戸権現とあり、祭りと盆踊り祭礼は七月十八日と十一月十八日、蚊口浦天神の祭例は七月二十五日と十月二十五日、相接近して祭礼が行われた。水主たちは日ごろ、自然の猛威に身をさらす生活をしているだけに、神仏に対する信仰心は厚かった。特に鵜戸権現に対する信仰が厚く、例えば藩用ちょうぽ船の建造に当たっても、丁場小屋(工作小屋)の建設の当初から鵜戸きとう権現への祈篇で始まり、船下ろし(進水式〉に至るまで幾重もの神事が行われている(蚊口代官目安)。したがってその祭礼は盛大であったと思われる。現在も高鍋三大祭の一つに数えられている。祭礼に歌われる「木造り」は、いつ始まったか明らかでないが、材木取り扱いの多かったところであるから、古いしきたりであろう。陰暦七月の孟蘭盆会のころ行われる盆踊りは、新霊の供養にことょせて、どの地域でも催され、それぞれ特色を持つものとなったようである。さきに藩主種弘に「嘉口踊」を御目にかけたという正徳三年の記事のことを引用したが、古い記録にしばしば「蚊口躍」の記事を見る。口碑によると、蚊口上町の東松山称名院円浄寺の栄誉和尚は、盆踊音頭の作詞者であるという。蚊口踊のうちには「じろま」という特色のある盆踊りがある。328祭りと盆踊りとは蚊口住民のこよなき慰安であったのであろう。第三節在方の生活高鍋城下の三郷寛文四年(一六六四〉の領知覚に見える高鍋村、上江村、市之山村、持田村、岸ノ上村の五村と、それには書かれていないが鴫野村の六村が現在の高鍋町である。鴫野村はその当時は平田村に含まれていた。あざ市之山村は現在の大字上江字市の山である。岸ノ上村は、現在の大字はげ持田のうちの大門・五反田から坂本・冗ノ下・切原方面を含む広い地域の村名であった。これらの二村すなわち市之山村が上江村に、岸ノ上村が持田村に統合されたのはいつであろうか。元禄十四年(一七O一〉七月に野別府代官に金丸利兵衛を、新納代官に石井又市を任命し(本藩実録巻之五〉、それぞれの支配地域を次のとおり明示している(拾遺実録、巻之四)。新納代官支配地高鍋村日置村三納代村上江村椎木村持田村河原村以上七ケ村(郷〉野別府代官支配地ハ石河内〉高城村石村平田村鴫野村川南川北以上六ケ村(郷)このときから新納院二七か村は一三村に統合編成され、二二村を郷とも呼ぶようになったものであろう。鴫野村(郷)の名はこのとき初めて