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概要

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世られた。控役は正役に差し支えが起こった場合には直ちに代役を勤めねばならないこともあり、万端の用音ゅのため四、五OO両を江戸に送ることになった。前夫人の葬儀、新夫人との再婚、勅使の馳走控役と三つの大行事が打ち続き、ばく大な費用が必要となったのである。延岡の商人小田理兵衛と小田清兵衛から別表のとおり三、000両を借り入れたが、それでもなお不足する。その不足分を補うために、家中の面々および領内のしかるべき者から一人一貫目以上借り上げ、一五か年の年賦で返還することになった。近第4編しかも、その年は四月から長雨が続き麦の被害が多く、駄には西風がそば荒れ、早くから例年にない大霜があり蕎麦などの雑穀は大きな被害を受かこいもみけた。翌十一年には幕府から囲籾の命を受けたが、調べてみると美々津と萩原の両藩庫には余米がほとんどないばかりでなく、家中の余米も乏しく囲粗のできる状態ではなかった。そこで従来に引き続き向こう五か年間の大倹約令が出された。五月には大風雨洪水があって植え付けに支かんばっ障があり、六月から七月にかけて早魁が続き、その後に大風雨洪水、冬にはかつてない大雪が降り、深さ八、九寸(二七センチ〉と記録されている。この年の損毛届高は六、O九O石余であった(続実録、巻之十二〉0翌年の文化十二年五月には重ねて公家馳走役を命ぜられている。そのときの費用は幕府に願い出て、寛政元年以来五か年分の囲籾と、文化七、八年の囲籾を換金して賄う許可を得ている。相次ぐ凶作や多大の出費に、藩の財政は危機にあえいでいた。同年十月八日種任はみずから書院の聞に出て家臣一統に、落財政の匙肢を告ぞんじよりげ、国益の増加策について存寄があるなら申し出るように述べ、役方のそれぞれへ検討するよう求めている。種任は文政三年、同十年にも「内証立直し」についての家臣一統からの意見具申を求めている(問、巻之一四、倹約令は文化八年(一八一一)文化十一年(一八一四)文政四年(一八二一〉天保元年、二年、七年、十四年(一八三Oj一八四三〉にそれぞれ三年間から五年間の倹約令を出し、そのうえに年末年始の節約を特別に求める令達を出している。天保二年には、内証不如意であるからと、五か年間の大倹約令と同時に、すベの知行の六朱(六%)を三年間借り上げることとした。天保七年(一八三六)六月にも、近年の凶作、前年の減米(六、七七七石)を理由に、翌年五月まで役扶持、切米の一人扶持、そのほか、寺院からも五俵以上を借り上げている。天保十四年には、前年から日光霊屋ならびに諸堂の修復手伝いを幕府から命ぜられ、五、000両の出費のうち二、000両は用意ができたものの、三、000両は大坂の商人から借り入れねばならないし、五月から七月にかけては早魅で、そのあげくには七月と八月の二回にわたり一五)。274大風雨洪水の災害に遭って凶歳の様相があり、他領から穀物を買い入れねばならない仕儀であった。危急を乗り切るため、二月には諸役方の賄いは向こう五年間は一切廃止し、九月には、諸土初め諸奉公人の地方、扶持方、恩米、思金、役料から寺社領、郷中小役の役料までを含んで次の割合で借り上げることになった。二百石以上一五%百五十石以上一Owm百石以上/\%五十石以上右以外は一律一-ノ\% %二十石以上四%相次ぐ借り上げは家臣の家計にも深刻に響いていた。弘化二年(一八四五)二月江戸に大火があり、藩邸が土蔵まで一棟も残らず類焼してしまった。回藩邸焼失と献金