ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
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高鍋城下の領民の生活チの自然石にうたがふな潮の花も浦の春という元禄三年の句が刻まれていて鵜戸神社神官岩切副寛が慶応二年(一八六六)に建てたという伝えがある。天神社は正保三年(一六四六)高鍋城内の天神社の分霊を祭ったという口碑のある由が宮崎県神社明細帳に記され、石の鳥居に「元文丙辰正し巴もまち月再建」ハ一七三六)と刻してある。下町にある正報山光福寺は浄土真宗本願寺派で、創建は永禄元年(一五五八)、木尊は阿弥陀如来、一尺八寸の木像である。中町の東松山称名院円浄寺は浄土宗、円福寺末寺で慶長十二年三六O七)僧空雲の開山。後代の住職栄誉は盆踊歌詞の作詞者でもあると伝えられる。そのほかに曹洞宗の江上庵があり、弾琴松の碑文に筆硯を江上庵に置く由を記しているが、現在の公民館が江上庵の跡であると伝えている。同じく曹洞宗で太平寺末寺の潮音山竜江寺が江上庵東方六町のところにあり、明治四年廃寺となったと昭和五年宮崎県史蹟調査報告に見える。記録に見える津口番所、瀬口番所、材木下役の詰所がどこであったか明らかでないが、津口番所、瀬口番所は現代の税関に相当する役所であり、港への出入船の監視、取り締まり、荷改めなどを行う所であるから、港全体を見渡すことのできる場所で、相当の広さを必要とするから、鵜戸神社の東、川口に面した辺りと考えるのが穏当であろう。蚊口浦の入口に当たる樋の口の西南三00メートルのところに古くは弾琴松があった。高山彦九郎の「筑紫日記」の前に引用した部分の前に次の文がある。第7章(寛政四年間二月)十三日、雨少しく降る。酌みて高鍋を立つ。中鶴村を過ぎて弾琴松を見る。二囲余。石碑立つ。是れを見るに長三尺横二尺斗り。碑は安永十年(一七八一i天明元年と改元)辛丑孟夏日建之とあり、左側に肝煎(きもいり)安田義門、綾部長英、松岡博章の名を刻している。安田尚義著「高鍋藩史話」によると渋井孝徳は細井平洲の後を受けた鷹山の師である。はじめ綾部、安田より清観公(種茂)に弾琴松の顕彰を願い、公より鷹山公を介して渋井孝徳の碑文を求められ、それがこの碑に刻せられて今に存するものである。と記されているが、当時の蚊口の住民の誇りでもあったであろう。高鍋藩が蚊口浦に代官を置いた最初はいつのこ蚊ロ代官と浦役人ろか明らかでないが、元禄十四年(一七O一)七月には既に蚊口代官の置かれていた記事が拾遺実録に見られ、正徳元年(一七一一)十月八日に、黒木伊兵衛が立山四郎兵衛に代わって蚊口代官に任ぜられたという記事が同巻之五に見えている。したんまち蚊口代官屋敷は口碑によると円浄寺の南側という。その西は下町で一一メートル余の石垣を築き、その上の台地がその場所で、その中に藩主の御仮屋もあったという。蚊口代官は中小姓で「蚊口代官目安」によると、管轄下の農工商水主を統陪し、年貢、運上、出役を賦課徴収し、勧業のことをつかさどった。うらおとな代官の支配下の浦役人に、蚊口催司一人、蚊口材木下役一人、浦老名(乙名)二人が置かれた。また、別の機関に所属する役人として勘定奉行の支配下の蚊口津口番、瀬口番、大目付支配の横目(目付〉、山方支配の山留、普請方に所属する船手方の船大工などがいた。「催司」は「さんし」または「さんじ」と呼んだことは前に述べた。万治元年(一六五八)までは「庄屋」の名称は用いられず、圧屋に相当321