ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

ac_cho_0008-3_takanabe

世だけ客観的にとらえてみよう。文献として最も参考となるものは寛政二年(一七九O〉八月改正の「蚊口代官目安」(木落秘典、義之巻〉である。蚊口滞は日向灘に面し、北の小丸川河口と南の宮田川の河口との間に位置し、宮田川がその、河口の辺りから蛇行して北に流れ、小丸川の河口に注いでいるため、いわば島のような形である。{呂田川の蛇行部分の対岸も通常は蚊口浦の行政区域に入れている。筑紫日記にもあるとおり、高鍋城下町から約一里(四キロ)の所にある。城下町の方から蚊口浦のひ〈ち街中に入るには、樋の口から北に曲がって新中町を通り、鯨橋を渡り街あらけ中を東へ進み、代官屋敷の前から荒家に出る。更に松林を東に進めば浜に出ることができた。荒家の東南が現在の高鍋駅である。今一つの道はLもまち樋の口から天神社の西で宮田川を渡って天神町、屋敷町を通り、下町を横断する。更に東に進めば現在の営林署貯木場に突き当たって南に曲がると古墳があり、その側に「あおんさ(様どという杷堂があった。蚊みなとまち口浦の町並みの最も主要な町筋は、鵜戸神社の西一帯の湊町から南のかみまちなかまち中島橋までの通りである。北から町名を挙げると、湊町、上町、中町、しもまち下町の順で、中町のところで鯨橋から東へ伸びる道と交差する。中町のえびす中ほどにえびす様を祭ったお堂がありその辺りを戎町という。右の主要町筋に並行してその西側を北から南へ走るもう一つの町筋がある。北かみはんだまもしもはんだまちしたんまちから順序に挙げると、上半田町、下半田町、下町と続き屋敷町に達すしもる。下町の西に、現在の郵便局の南側の通りを更に南に入り、二筋に分ろえんまちかみまちかれる短い町筋を上町という。上町と中町の中間の四つ辻から東へ延やまんしゅじび、鵜戸大明神の参道の一人口を通り、浜へ出る通を山野小路という。四したんまちひきEまち辻から西へ延びて下町に出る通りが挽木町。四辻の西北の角に蚊口術の代表的な共同掘抜井戸があった。石垣を丸く組んで深く掘り下げ、のぞいて見ると暗くはるかな底に水がかすかに揺れて光るのが見える。長近第4編おけつるベい綱を付けた小さな桶いわゆる釣瓶でくみ上げる共向井戸である。水には少し塩気があったが、飲料にはなる。蚊口一帯は砂地で飲料水が乏しく井戸は貴重であった。砂地であるため、水源に達するには深く掘らねばならず、崩壊しやすく、多くの費用を要した。特別富裕な家を除いて、個人で井戸を持つことは容易なことではなかった。それだけに共同しもまちうえんまち井戸は必要で、荒家、半田町、新中町、屋敷町、下町角、上町にも共向井戸があったという。中には塩分を含まない井戸もあったという(円浄寺過去帳、岩切八郎、日旧潤て黒木正利談話〉。円浄寺の過去帳には田神と蛭子町という地名、が書かれているが、所在が明らかでない。鯨橋の名の由来は明らかでないが、この名は古くからあり、修復が度々行われ、寛延元年(一七四八)には船の通行のために、橋板の取り外しができる320ようにしたという記録もあり、河を船が通航していたことを示していて興味深い。神社・寺院「筑紫日記」にある鵜戸大明神は、高鍋藩の貞享寺社弾戸長こまlbvt琴本公蚊口浦比木御幣下鵜戸権現社司一本地観音伊拝殿二間二三間萱葺?象一聞社板葺十一月十八日祭礼ほんじすいじゃ〈けしんと記している。権現とは本地垂遊説では、仏が化身して我が国の神としすけとして現れたことをいう。宮司岩切副年の「鵜戸神社略誌」によると、祭神うがやふさあえずのみことは鴎鷲草葺不合尊、創建年月日不明。寛正三年(一四六二)十月の社殿再興の棟札写しがあるという。神官の系統は同誌に、岩切次郎、日下部立次以下三九世に至ると記されている。例祭は七月十八日と十一月十八日。境内に古境四基がある。また参道に芭蕉句碑があり、幅六七セソ