ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
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4道具置場大うちわ五本主びぐち鳶口五本ずつ一、二番組御普請方三、四番組|町御仮屋徒士以上無役の者全員出動、火事場日付足軽一八人、諸郷人足出動、家老、奉行、用人の指図に従う。大挺子はしごほて一O木5火災の時O防火設備大水水i留桶堀町内に八箇所天神大桶四八幡社円実院日光院O防火用水路かんがい-謹瓶用水路町内を四箇所で横断。2町筋西側に御仮屋まで防火用水路(宝永四年七月、大坪甚右衛門、堤団之進の発議。但し耕作に支障なきょう八月より二月まで)。。文久元年には松原町の若者組が竜吐水一挺を購入した記録が残っている。。出火の際の伝達法(半鐘、太鼓等の使用)、(町民の消火、防火組織等は不明)。高鍋城下の領民の生活第二節蚊口浦の生活蚊ロ浦の地名第7章蚊口浦の地名は古い記録には、蚊口(見聞年代記〉ま町並みたは蚊口浦(本務実録)と書かれている。語源的には、かわぐちその位置が小丸川と宮田川の雨、河口であるところから「川口」であったものが、その約音「かぐち」となったものであろう。その発音からの連想か、あるいは戯れにか「蚊」の文字を用い、蚊口あるいは蚊口浦と書と「浦」は本来は海や湖の湾曲して陸地に入り込んだ所を指した言い方から、一般に海辺を言うことになった。「嘉口」と書いた例も見られる。本藩実録巻之六、正徳=一年十二月五日、家老山田隼人宅で藩主種弘に「嘉口踊」(盆踊り)を御自にかけたという記事や、串間神社の板額にも「嘉日浦」から乗船したという記事が残っている。「蚊口千軒」という言葉が伝えられている。蚊口の繁栄を言い表す言きしるしている。葉だろうが、それに近い数字が「筑紫日記」に見られる。寛政四年間二月、高山彦九郎が高鍋を訪れたことは、城下町高鍋の戸数・人口のところで記したが、十二日夜は旅寵屋高美屋庄六の所に宿を取り、翌十三日、小雨の中を中鶴村から弾琴松を訪ね、源重之の歌碑ゃ、その裏面に刻まれた渋井孝徳撰の碑陰の記まで丹念に書き写し、蚊口浦に行ったことを次のように書き記している。蝉琴松のもとにてよ必る正之緑にも色そふ春や琴ひきの松風さへし音ぞゆたけきとぞ。鯨橋なる板橋を渡る。かぐち湊也。七百軒ばかり。鵜戸大明うまひつじ神、海辺松森の所に立つ。午未(南南西)の間へ向ふ。ふきあわせうし乙らずの尊を杷る。艮(東北)の方土佐国也。夜明には見ゆる事あり。百里もあるべしといふ。城下より壱里也。彦九郎は高鍋に四泊し、千手輿欽、その子春太郎初めいろいろな人に会い、七月に再び高鍋を訪れている。蚊口浦については右のとおりの記述であるが、「七百軒ばかりLという記述は、実際に見た人の記述であるから、たいそう貴重な記録である。当時の蚊口浦の繁栄の状況がうか「蚊口千軒」とは、実数であるよりは、がえる。「千軒もあるようににぎやかである」という繁栄の表現であろう。藩政時代の蚊口浦の町の様子を、文献そのほかの資料によってできる319