ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
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世条無し。火本松原町新蔵、平次郎両人家境より出火にて火本決らず、両人共寺入の処、平次郎へ相決る。新蔵は入寺御免。類焼の者赤(赤米〉四斗ずつ、乙名両人は六斗ずつ、松丸太一ケ畝、半ケ畝差別なく六本ずつ下さる。類焼の内五軒、幼年又は女共無縁助にて力これ無き者、小屋掛出来兼ね候者、古苫十枚、店竹一束、中唐(竹)六本、内竹三束、縄五房、萱半駄ずつ下さる。小屋掛出来るまで町役目御免。荒井町(洗町〉も毎々役目も致すに付、木町と差別無く赤(米)四斗ずつ下さる。(続実録、巻之六)右の文中「入寺」とは失火した者に対する処罰で、所定の寺院に入寺して謹慎修行し、奉仕生活をすることで、類焼のないときは三日、類焼ふたな向かのある場合は二七日(十四日〉と宝暦十二年(一七六二)に定められた。近第4編そのほか大地震八回、霧島山の噴火二回、桜島の大爆発一回がある。地震の最も激しかったのは明和六年(一七六九〉七月二十八日の大地震であった。舞鶴城にも大きな被害があり、諸小路や街中、蚊口浦にも倒れた家が多く、町の小部当の家が崩れて四歳になる子供、が亡くなった。小部当の家といえば町の代表的な家というべきであろうから、町内の被害はよほど大きかったと思われる。小部当の役宅は、酒屋の庄六というかわらぶ者が、瓦葺きにして見かけよく建て直したという記録、がある(続安銀、巻かや之二〉。城下町の萱屋根がこのころから瓦葺きに変わり始めたことは注自すべきことである。藩の勘定所が瓦葺きになったのは、元禄五年(一六九二〉四月であるが、町人の住宅が瓦葺きになるのはずいぶん遅れている。災窪田のうちで回数も多く、被害も大きいものは大風雨と洪水であった。寛保三年(一七四一二)二0=一戸の家屋が倒壊した大竜巻もあるが、大部分は台風である。当時は発生の原因も分からず、突然襲う天災で、料仏に祈るしかなかった。佐久間土手の完成以後は小丸川の氾濫が町に被害をもたらすことは少なくはなったものの、洪水の被害を受けることはしばしばであった。洗町の町名の起こったゆえんである。流路の形跡は地形の上に明らかに見られる。消火組織と318城下町に火災の多かった理由は、家屋の密集、木造萱防火設備葺き、防火施設や消火設備の不備などがあったであろう。一八00年代半ばに拙かれたと思われる高鍋城絵図の家老屋敷はまだ萱葺きであり、明和六年(一七六九)七月の大地震で倒壊した町役人小部当の役宅を瓦葺きにしたのが、市街地の瓦葺きの始めであったことなどから見ると、市街地が瓦葺きになったのは、よほど後のことであったであろう。火災に弱いだけに、防火態勢は早くから整えられた。元禄二年三六八九)十月、火消奉行に千手九兵衛、堤友之丞、村井久右衛門の三名が任命され、防火対策が練られ、同五年三月、城内火災の際の責任担当者うまやが、本丸、下の段(二の丸と三の丸)、厩、について命ぜられ、定火消に堤友之丞外二名が任命された。同七年三月、火事用の水龍一九O個を、城内五か所、町内には町御仮屋や乙名宅に配置した。宝永三年(一七O六〉一月には、以下周辺の消防組織と防火設備が作られた。O消防組織-火消支配一番組1四番組2各組の人員給人以下七人小人五人小頭一人外に加役三人一六人3火消諸道具鉄熊手五大のこ二大よき(斧)大鎌大綱二筋水はじき一O木蓮一O枚水かご三O