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概要

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世に荷物は二O貫(七五キロ)までであった。一駄の荷は三六貫〈一三五キロ)まで。駅人足の賃銀は、持荷六貫〈約二三キロ)までで一里(四キロ)につき二八文であった。近他領との交易は、蚊口浦を通じて行われ、津口番所を設け、運上(租税〉が課された。運上については、蚊口浦の生活のところで述べるが、文化七年(一八一O)の「蚊口浦津口改運上目安」によると、二O八品目について運上基準が定められ、物資の出入りの多かったことを示している。他領から買い入れ禁止の物資は酒と穀物類で、穀物は凶作の年に限り特別に購入が許可せられた。第4編交易・質屋・講・祭質屋は庶民の金融機関であった。利子は一割二分が限度、質物は一0か月を期限として流してもよいという規定であった。質物を紛失した場合はもとより業者が賠償するが、火難の場合は相互に半損である。刀、脇指そのほかの武具、農具などはその支配頭に届け出で、盗品は一切受け取ってはならず、また、拝領物の紋付や衣服を受け取ることも固く禁止されていた。質屋の運上は一か年に文字銀一五匁であった(町奉行目安)。講は相互扶助的な団体組織で、武士、町人、農民などの聞に、宗教的、経済的目的でさまざまな構成で行われていた。同じ信仰の者が集まる観音講、報恩講、参詣旅行費を出し合い交代で参詣する伊勢講、金銭を融通扶助するもので最も広く行われた頼母子講、同業者の集まりの恵美須講、大黒講、庚申講などがあった。庚申講は高鍋町内のそれぞれの町単位で行われていたと見え、庚申塔の一種である自然石や、方形の庚申尊石が八坂神社境内に二基、火産霊神社と称専寺境内にそれぞれ五基が現存する。火産霊神社の方形の尊石には文政五年(一八二二)五月士口祥日と刻まれているものがある。松原町には、「初庚申雑用控」「庚申尊石建控」などの帳簿ゃ、講のときに掲げる猿田彦命と青面金剛の掛軸が現存する。316(猿田彦命と青面金岡IJ)(岩村兼一郎蔵〉庚申講用掛軸庚申講は道教の影響を受けた信仰によるものである。庚申の日の夜に眠ると命が縮まり、眠らずに身を慎めば災難が除かれるとされ、仲間が当番の家に集まって、帝釈天、青面金剛、猿田彦などを祭り、飲食をともにし、あるいは物語や遊芸を楽しみ、頼母子を行ったり、また庚申塔を建てたりした。これを主催したのは、松原町の場合、三五歳以上の者で構成される「若者組」であった。あげふだこうほかに揚札講といわれる一種の富興行(現在の宝くじ〉が行われていたことは注目に価する。これは落、が行う公営のものである。「銭預札」という、落が民間に対して出した約束手形に類する物が発行せられていたが、急々に決済し難いところから、揚札誌と名付けて、天保十三年(一八四二〉十一月から五か年間、半の月(奇数月)ばかり、一か年に六度ずつ御仮屋で富興行が行われた。その係官には町奉行以下七名が任命されていた(続笑録、巻之一九)。営葬講は町人の間でなく武家の聞に行われていたものであるが、ついでに挙げておく。