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概要

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であったらしく、現在も幾軒か残っている。町屋敷を所有する者には、。じ忠た町から陥れたところに野地畠という耕作用の畑が支給され、野菜などを栽培することがで、ぎた。町奉行目安によると野地畠は町乙名が三反半、じし屋敷一か畝につき三反半、半か畝は一反半であった。地子(回以外の土地、畑や屋敷に対する地租)は、町屋敷は一石につき銀七匁、屋敷外はb・弘戸、高一石につき銀一一匁、そのほかに毎年薪そのほかの礼物上納が-謀された飲料用水は井戸を掘ることが容易で水質が良いため、各戸に井戸を持かんがいっていて上水道はない。しかし、宮田川上流から、瀧淑用水としての太平寺持ゃを城内に引き入れて城堀を満たし、更に町内を小丸小路入口、松原町、上町、下町の各所で横断させ、雑用水や防火用水ともした。また後で記すように町筋の西の一果に北から南へ水を流し、防火用水や雑用水とした。高鍋城下の領民の生活連~安松(初〉家現状平面図第7章第5図句叶. " J安松(初〕家外観藩政時代末期の商家が現存しているのは十日町の安松初巳家と安松芳子家である。安松初巳家は藩政時代は小部当であったという(初巳氏談)。安松芳子家は造り酒屋であった。第5・6図と解説は昭和四十八年三月、宮崎県教育委員会発行の「宮崎県の民家」によるものである。安松初巳家住宅児湯郡高鍋町十日町安松芳子と百数十mへだたっている大型の町屋。表廻りは明治期およ安松(初〉家オクびそれ以降の改造をうけて調子をくずしているが、居室の主要部はほぼ当初のままで、特に本格的なとこ・たな・書院をもっ座敷は質もよく上級町屋としての制をみせる。平面は巾二・五聞の通り庭を左手にして、右手313に三列、部屋数にして土