ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

ac_cho_0008-3_takanabe

世町同心は小部当役所に常駐し、町奉行の指揮を受けて警察権を行使し、町内の取り締まりに当たった。町同心が初めて置かれたのは元禄六年(一六九三)十二月で、町奉行八回彦左衛門のときに六人任命されたが、後に八人に増員された。落主の参勤出発と江戸から帰城のとき、祇園祭のときは、八人全員が取り締まりに当たることになっていた(町泰行目安〉。また、城下町は宿駅でもあり、駅馬のための町馬医一人が置かれた。室岡鍋藩に「催司」(さんし、さんじ)という役が置かれ、それを統轄そうさんじするのに「惣催司」があった。惣催司はいわゆる勘右衛門水路を作った長友勘右衛門の功績を賞するために、永く世襲されることになり、明治維新まで代々世襲された。その職務内容については職制の部に述べたとおりである(第三章第四節〉。「遠見番」幕府は早くからキリスト教を禁じ、しばしばキリスト教徒の弾圧を続けた。高鍋藩では、寛永十四年(一六三七〉福嶋崎田村でイタリヤ国バテレンを捕え、長崎奉行へ引き渡すということがあった。その十一月島原の乱があり、幕府は寛、氷十六年にキリスト教禁制を更に厳重にすべきを命じた。寛永十七年(一六四O)六月、第二代落主種春は江戸からの帰途、豊前園小倉でキリスト教厳重禁制の意趣を受領、七月財部へ着き、福嶋三か所、新納野別府へ三か所、沿岸に近づく異国船監ぽんがしら視の遠見番所を設置した。すなわち、福嶋には郡木・都井・市木に番頭〈らかけあまつけたぶときを置き、新納野別府では鞍掛・甘漬・楠時の三か所に番頭を置いた。しかし、後世、それが劇職ではないのでほかの官の者に兼務させることになり、火消都合が鞍掛番頭を兼ね、道方が甘漬番頭を兼ね、差〈んベ津番代近第4編が権時番頭を兼職することもあった(藩史一班〉。その後幾多の変濯があり、文化十二年の人給帳には、二人町奉行支配倉掛ふち遠見番近習平塚藤助三十五すなわち、町奉行支配となっている。倉掛は鞍掛の当て字で、近習は身分制度に記したいわゆる「通」の一つ「近習通」で格式を表す。鞍掛遠見番所は現在の南九州大学正門の東方の断崖の上の、日向灘を一望できる位置であったが、その跡にはなんらの造物も無い。しかし、甘漬遠見番所跡にはかつての遠見番人の子孫黒木寛が今も居住し、当時の望遠鏡や古文書も現存し、遠見番所の様子を知ることができる。川人屋敷は通常町屋敷といった。町人屋敷312間口五間(一OMU)、奥行二四間(四八MU、四畝(ぽ山の岬方)の屋敷を一か畝といい、間口二間半(五いじ奥行二四間(四八い川)二畝の広さを半か畝といい、売買が許され、買い受けたときは名義変更を奉行所に願い出ることになっていた。安松家文書の中に売買に関する文書や「屋敷売渡名儀変更」の願書がある。乍恐奉願上候TH9~,焦J町人屋敷顔替(名義替〉願書(安松初巳蔵〉十日町西側一屋舗壱ケ畝右私抱屋舗安松藤吉方江売渡申候かおがえ間員替御免被-歳下一候様乍ν恐奉ニ願上一候以上午九月廿一日神戸久治今井金平殿一か畝のことを本か畝ともいう。か畝持ちのほかに、半か畝を持つ者もあった。半か畝の商家の表の小さな入母屋風の作りの形式は規定された形式