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概要

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世し、自給自足をたてまえとしていたとはいうものの、士分階層の者はやはりほかの庶民よりは消費的であり収入の点でもほかの階層よりは豊かであった。それらの人々を対象とした城下町は相当に繁栄していたと思近第4編われる。高鍋城下町の人口や戸数は、さきに挙げた明治二年(一八六九)弁官に報告した「高鍋藩文武職制戸口租税等調」の「惣寵人別改警」に城下町の人口三百七軒男六百八拾九人女六百六拾六人右高鍋分とあるが、この高鍋分というのは、児湯郡の東部の高鍋藩領を指しているものと思われる。蚊口浦、美々津の住民は大部分が水主で、「惣寵人別改書」のうちの「七百三拾五軒水主」がその戸口で、町人の数には含まれていないと思われる。しかし、代官支配の高城町と都品町には少数ながら町人が営業していたと思われるので、三O七軒が城下町高鍋の戸数と断定することはできない。それで今少しほかの資料も参考にしてみたし。木藩実録そのほかの実録中に高鍋町の災害の記録がある。災害については後に詳しく述べるが、慶長十九年三六一四)から、幕末の慶応四年(一八六八)までの二五四年間の大火の記録を見るに、市街地だけの最大被害は、寛政元年(一七八九〉二月の一五八戸焼失である。少なくともそれ以上の戸数はあったのである。また、寛政四年(一七九二〉閏二月十二日、高鍋町を訪れた寛政の三奇人の一人古岡山彦九郎が、「筑紫日記」に、大塚氏(観澗、太一郎)の宅黒谷を南に見て東へ折けて(折れてか〉高鍋町に入る。二百五十軒計り南北町也。と書いている。この二五O軒ばかりという数は、当時の戸数の参考になる。高山彦九郎がこの数を書き記した根拠は明らかでないが、いいかげんな数字とは思われない。宿泊所高美屋圧六に聞き正したか、酒を酌み交わした市兵衛という人物に問い正して書いたかであろう。彦九郎のそのほかの記述も極めて正確である。翌日弾琴松を訪ね、渋井孝徳の弾琴松の碑文なども全文正確に記録していることなどから見て、かなり信用の置ける数字であり、明治二年の町人の数にも近い。町奉行には、堤甚五左衛門が延宝四年(一六七六〉十町役人一月初めて任命された(見聞年代記〉。次いで千手次郎兵衛がこれに代わり、元禄四年三六九一〉には八回彦左衛門(二OO石)と河野六郎兵衛(一二二四石余)が相役で奉行職に就き、町奉行も兼ねることになった。その後も者頭級の者が任ぜられている。町奉行の業務については寛政二年改正と見られる「町奉行目安」がある。ぺとうおとな町奉行の支配下に、部当、小部当、老名(乙名)、同心、遠見番があった。「藩史一班」巻五に、おとなトフペとうトナシテシズヲ市街商戸之長田ニ老名一、日ニ別当一。皆土人互撰上奏、総奉行命ν之。ケレバチピテノルヲズヲレ.トモテノザルヲノニ無ニ其人一、則官撰下歩卒有一一才幹一者上任ν之。然以=主職非ニ士卒所vスλルユエシヲスルコトヲ為、接ニ他邦人一一ν小得ニ称ν氏侃万一。おとなベとう(大虫色市街商戸の長に、老名(乙名)と別当(部当)がある。町人の聞で選出された者を総奉行が任命する。町人のうちに適当な者のない場合は、歩卒のうちで才幹の有る者を任命する。しかし、職務内容が町人の仕事であるから、他領人と接する場合には氏を称すること、万を差すことはできない。310