ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
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第七章高鍋城下の領民の生活第一節城下町の生活高鍋城下の領民の生活高鍋城下町は高鍋城の東正面に、大手門からわずか一OOU川のところを北から南へ走っている。小さな区画に付けた町名を北から南に順序にいうと、松原町・上町・本町・八日町(現在は中町)・六日町・十日町・下町と続く。松原町の北端からは東・西・北の三方向に道が延びる。東へ進めば田ノ上から順礼道に通ひきでぐちあれんまちずる。その道の途中から北へ分かれて挽木出口に通じ、西へ進めば洗町はんらんを経て高月に通ずる。洗町は、佐久間土手の完成以前は小丸川の氾濫のあらい際、洪水の被害を受けるところから、洗町という名称がついたと思われる。松原町の北端の橘橋を渡ると小丸小路・小丸出口を経て小丸川の舟渡場に通ずる。かみよこまちあこづき本町から東へ延びている街筋が上横町で下月火の潜の西までである。しもそこから道具小路の一寸小路を経て蚊口に通ずる。下町から東へ延びてしたみのえ祇園社の前を通る街筋が祇園町(現在は八坂町〉で、蓑江・下蓑江に通いしわらじ、東の中鶴、北の石原につながる。松原町と上町の境の東に、浄土真宗の栗田山称専寺があり、下町の南、宮田川を越したところに浄土宗の水徳山満月院円福寺がある。称専寺は初め筑前国栗田郡、秋月氏領にあり、覚永寺と号したが秩月氏が国替えのとき、僧常安がこれに従って来り、天正十八年(一五九O)建立した。本願寺派に属し、高鍋藩の浄土真宗の元締めであった。円福寺は京都知恩院末寺で、応永年中(一三九城下町の町名第7章四l一四二七〉土持氏のとき建立、閉山は久意上人と伝えている。神社ほむすびは祇園社のほか、六日町の西側に火産霊神社があるが創建の由来は明らこうじんさんかでない。高鍋町は火災が多いので勧請したと伝え通常、荒神様といっている。なお、縦筏の武家屋敷地帯への入口の南側に町御仮屋があった(現在則信電器店)。御仮屋はいわば藩の迎賓館ともいう、べきで、幕府の上使、あるいは藩に対する正使の接待、宿泊の場所でもあった。以上が城下町の概観である。商店が軒を並べる市街地の町名は上記のとおりであるが、町を支えている周辺の状況を見ると、市街地と城郭との聞の縦筏と横筏には、武家のうちでも特に格式の高い者頭以上、家老、奉行、あるいは給人級の医師たちの住む上級武家屋敷が続き、町への出口には衡門すなわち冠木門があった(藩史一班)。いしわらうわみのえまた、すぐ東側の石原地域と、東南の方に少し離れて上蓑江、下蓑江地区があり、いずれも中級武士の屋敷がある。町筋の北に続く小丸小路ゃ、その東側の後小路にも主として中、下級武士が住み、宮越は武士と農民がいっしょに住んでいた。城郭の北に連なる高月に寺社があり松本から、平原地域に中、下級武士と農民がいっしょに住んでいた。また、町筋の東のほうには水田地帯を挟んで職人の住む道具小路を控えていた。あまり遠くない小丸川河口の蚊口浦は、小丸川流域、特に尾鈴山系の物資の移出港であるとともに、この地域の必要物資を阪神方面や他領から移入し、江戸、京都などの文物の流入する港でもあった。城下町高鍋の繁栄する条件は整っていたと見てよいであろう。さきに高鍋藩の人城下町周辺の状況口のところで見たように、高鍋藩全体の武士および土分の六七%が、高309鍋、上江、持田、蚊口に居住していた。当時は下級武士も農耕に従事