ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
- ページ
- 38/92
このページは ac_cho_0008-3_takanabe の電子ブックに掲載されている38ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ac_cho_0008-3_takanabe の電子ブックに掲載されている38ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ac_cho_0008-3_takanabe
世やぶき、薮の中に隠されたものを、後に中鶴村の則松松太郎が拾い出して、水谷原の円福寺(浄土宗〉に祭ることを依頼したもので、現在も同寺に祭られている。観音菩薩像は高さ三七センチ余、台座一0センチ余の木造である。排仏段釈の狂信的な運動によって、貴重な美術口問や多くの記録類の失われたことは、惜しんでも余りあることである。この時期の注目すべきことを挙げると二一年四月、高鍋・上江・持田・きぴ椎木・高城の各郷に、広く砂糖黍の植え付けを奨励し、製糖業を興している(県史稿本)。近第4編三年二月、藩内の農民が少なく農地が荒れるので殖民策として農民希望者を募り、小屋掛け、馬代、飯料として補助米八俵を支給し、四月には農家の分宅、抱え百姓の増加を奨励して、分宅には補助米一戸五俵、抱え百姓には八俵を支給した(落尾録)。また、出生児の間引きの悪習は、人道上からも、農民増加のうえからも重大な問題であるとして厳禁し、防止策として五人組の連帯責任を強化し、五か月目の妊婦を月番から養育方に届けさせた。一方では、出生児の養育手当として、庶民の子供は三人目に米一俵、四人目から一俵上がり、卒族は四人目から米一俵、五人目から一俵上がりを支給した(落尾録〉。明治二年十一月、藩史の史料として、制度、法令条目、重要事項の整理記録のため綾部豹蔵を記録総高鍋県印(高鍋図書館蔵〕命じて同役と裁に任命したが、同三年十月に奥村直五郎にも記録編集掛をし、総裁の名目は廃止した(藩尾録〉。同三年十二月、高鍋域内の五神社を一か所に合柁し、城の通称を取って舞鶴神社と名付け、神殿を建立した(児湯郡神名帳)。明治四年七月十四日、廃藩置県の詔勅があり、太政官廃藩置県'は左の布告をした。今般、落を廃し、県を被ν置候に付ては、以下、是迄通事務取扱可ν致事。306追て御沙汰候迄、大参事太政官そして藩知事には東京に移住を命ぜられ、藩の常備隊も解散になった。しかし新しい知事の任命は行われず、旧藩の大参事以下によってこれまでどおり事務が取り扱われ、大事は中央の決裁を求めさせることになった。このとき、高鍋藩では大参事二人のうち黒水鷲郎と権大参事坂田寿辛未七月の二人が東京詰で、もう一人の大参事城勇雄が交代して高鍋への帰途これを聞き、伊勢宗廟を拝して帰藩し、藩務の整理に当たったとその自伝に記している。全国に三府三O二県が置かれた。日向では延岡・高鍋・佐土原・妖肥・鹿児島・人土日の各藩がそれぞれ廃せられて県となった。高鍋県は、旧藩に所属していた児湯郡のうち一一一一村、臼杵郡のうち一村、諸県郡のうち七村、那珂郡のうち一八村、合計三九村、九、一一七戸、人口四万三、三三四人であった。延岡県は臼杵郡のうち六五村、宮崎郡のうち二五村、合計九O村、佐土原県は那珂郡のうち一一村、児湯郡のうち一五村、合計二六村、飲肥県は、那珂郡のうち四四村、宮崎郡のうち四村、合計四八村、鹿児島県は諸県郡のうち一二八村と薩摩・大隅の二園、人士口県は、臼杵郡のうち四村と肥後園球磨郡で球磨郡のうちには米良山一四村をA己んでいた。