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概要

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の仏語を神号とし、仏像を神体とすることを禁止した。これを神仏判然令、または神仏分離令といっている。これ以後、排仏段釈の運動が全国しようへい各地に起こった。高鍋では、明治二年九月に藩の招蒋した国学者名波大年が、その一味の神宮たちを指導して排仏駿釈の運動を強力に行い、秩月家の菩提寺である竜雲寺・大竜寺・安養寺の三か寺をはじめ、多くの寺院や僧庵を焼いたと語り伝えている。名波大年は大坂の人で、南朝の元勲名和長年の末育といわれている。白河家の神道を修め、皇学を講究し、和歌に長じていた。藩知事は賓師こんこうの礼をもって遇し、藩内の神仏混鴻を整理し、神祇の祭耐を正さしめ、明治三年四月一日、明倫堂教授とした(明倫堂紀録〉。その問、落内の排仏段釈運動を指導した模様で、僧侶の還俗や転出の方法にも強引さの目立つ記録がある(藩尾録〉。明治初年廃止された高鍋近辺の寺院は次のとおりである。臨済宗(年号は廃寺の年、村名は所在地)竜雲寺(明治二年)上江村(秩月家菩提寺)大竜寺(明治三年)上江村(秩月家菩提寺)宝福寺(明治二年)上江村山下落末変動期の高鍋昌太福平曹寺寺洞" "万丈明明治治明明年年蚊蚊上太口口江平浦浦村寺五75羽村保根興寺田社寺帳第6章竜江寺(不江上庵(不浄土宗安養寺(明治三年)上江村(秋月家菩提寺)西迎院(明治三年)井上村医福寺(不元祇園(不明〉中鶴村明)道具小路真言宗高月寺(明治二年)上江村高月祇園寺(明治二年〉下横町大仙寺(明治三年)嶋野村観音寺(明治三年)蚊口浦東光寺(明治三年)持田村天神寺(不明〉上江村黒谷愛宕寺(不明)上江村愛宕下修験宗地福寺(明治三年)城内河田寺(明治=一年)川田村飯長寺(明治三年)上江村松本宮田寺(明治元年〉宮田(続々官夫録)河田寺(不竜岸寺(不明)小丸村明)脇(注)廃寺の年は、瀬之口伝九郎書写の貞享三年高鍋藩寺社帳に記入のもの。不明は消滅しているが年限不明のもの。右の廃寺の仏像の残ったのが二体ある。宝福寺の十一面観音立像と太平寺の観音菩薩像である。宝福寺のそばに住んでいた坂本安五郎が、寺に火のつけられることを知って、同寺の本尊十一面観音立像をいち早く持ち出し自宅にかくまったため、からくも焼失を免れたのである。同家の子孫坂本清は堂を建てて祭っている。仏像は高さ七六センチの木像で、鎌倉後期の作といわれている。太平寺の観音菩薩像は、寺の焼かれたと305