ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
- ページ
- 33/92
このページは ac_cho_0008-3_takanabe の電子ブックに掲載されている33ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ac_cho_0008-3_takanabe の電子ブックに掲載されている33ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ac_cho_0008-3_takanabe
政府は=一年九月、更に「藩制改革」を布告し、さきの「藩治職制」の趣旨のいっそうの徹底を図った。そのため日向国の、延岡・高鍋・佐土原・飲肥の四藩は、談合協力して、政府の趣旨を貫徹し旧弊を洗除するとともに、練兵についても合併操練を催して訓練したいと、閏十月七日弁官に願い出ている。弁官は「会議の儀は聞届け難いが、練丘(の儀は追って相違する」と回答している(県古公文書、鹿墜籍〉。その後なんらかの通達があったのか、九月第一回の四藩会議が開かれ、高鍋藩はこれに参加するために、大参事黒水鷲郎、小参事財津十太郎、郷長大坪格が九月九日に出発している(藩尾録、巻之四)。第二回会議は十月十七日に高鍋で行われ、延岡藩・佐土原藩各一人が来て相談のうえ、来る二十四、五日の両日、妖肥の木崎浜で合同操練を行うことになり、佐土原藩は薩摩にも連絡し、高岡の兵隊も加わることになった。第三回会議は閏十月二十八日高鍋で行われ、延岡藩から正権大参事二人、佐土原藩から大小参事三人、妖肥藩から正権大参事三人が来て、朝五つ時(八時)から夕暮れまで会議が行われ、終わって城下町に四藩会議藩末変動期の高鍋出て酒宴が行われた。会談内容は合併操練のこと以外つまびらかでないが、会談の顔ぶれや、会議が永い時間にわたっていることから見ると、藩制改革に関する広範な論議がなされたものであろう。「日向の近代期」(県地方史研究紀要第一輯)に、究極するところ、藩制改革は藩それ自体の解体にも発展する要素を含んでいたから、藩単独での改革には自ら限界があり、士族・卒のそ禄の制他が授決産まのつ方た法と32債吉慣も却のの庁、方多法分7工Uこξ暫掌富写性格れをぞもれ号~Lつ" '吋ト声明石Lの立でて第6章報告は出しているものの実行性に乏しく、報告のために作られた計画と云った方が当っていた。四藩会議の開催もこうした事情を背景にして具体化したものと思われる。と指適しているとおり、各藩は解決の困難な、しかも各藩に共通した問題を抱え、四藩会議を聞いたものであろう。このとき定められた合併操練に関する事項は次のとおりであった。一春三月一度、年々一藩へ各藩分隊長以上総都合共六七人宛差越し、其の落の兵卒操練の事。大砲も同様。但し別の日に行うこと。大砲弾薬一門につき五発内』110-Hゲ〆一秋一度、各藩二小隊ずつ引率し、城ケ崎並びに金ケ浜で合兵操練の事。(県史稿本)四藩会議はこの後は聞かれず、廃藩に至っている。明治元年十月二十六日、高鍋藩は三種の銭札を発行し藩札'- 041ド(藩令)今般天朝御主意ヲ以テ産物取開融通ノ為メ、別種ノ銭札発行相成、正金引替ハ左ノ通リ被ニ立置一候一一付、正金同様無v疑通用可v致候。一五百文札一百文札一弐拾四文札但模様何レモ松、竹、梅一引替場御金納戸右引替ノ義、産物方へ申出候へハ金納戸へ引付差出シ、右ヲ以テ引替可ニ相成一事。旅人ハ問屋又ハ知音ノ者へ勝手次第相頼ミ引替ハ右同断。次いで、十一月十八日、また銭札弐貫五百文札を発行している。明治三年五月日、藩公用人岩下小太郎から大蔵省へ届け出た、明治元但隔目、半ノ日301禄制が決まったとは云うものの多分に暫定的性格をもったもので、その他授産の方法、藩債償却の方法など、各藩それぞれ計画を立て、報告は出しているものの実行性に乏しく、報告のために作られた計禄制が決まったとは云うものの多分に暫定的性格をもったもので、その他授産の方法、藩債償却の方法など、各藩それぞれ計画を立て、報告は出しているものの実行性に乏しく、報告のために作られた計