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概要

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し、府県の学政を統轄する行政官庁であった。種樹は初め少監(大監欠員のまま)であったが、十月大学大監に任ぜられた。同年十二月に大学校を改めて大学と称し、開成学校は大学南校、医学校は大学東校と改称された。明治三年二月、ようやく「大学規則」および「中小学規則」が定められた。これが欧米風の学校規則の初めてのものであり、新しい時代の教育の基盤が初めて立てられたのであった。ただしまだ府藩県に頒布されず、希望者へ提示するにとどまったという(岩波・総合年表)。しかし、ここに至るまでにも困難は多かった。特に、二年八月二日に学神祭を行ったことから、国学派と漢学派の抗争に発展し、種樹はその解決に苦慮し、願い出て謹慎になったが、明治天皇の勅誌で解除されるという出来事もあった(藩尾録巻之一)。封建社会から近代社会へ移ろうとする一大転換期であったから、至るところに混乱と苦悩はあった。その後もいろいろな問題が起こった。藩末変動期の高鍋「大学規則」「中小学規則」は、洋学系の構想によるものであって、国学派・漢学派は強い不満を持ち、両学派が結束して洋学派と対立し、新しい抗争を始め、時とともにますます激しくなり、同三年五月、別当松平慶永は責を負って辞表を出す騒ぎとなった。種樹は三条実美と謀り、三年七月十二日、学制更正を理由に、国漢学派の拠る大学木校を閉鎖した。そのため洋学系統の大学南校と大学東校のみが残り新しい発展をしていった。両校は後に合併して東京帝国大学となるのである。種樹は翌七月十三日に大学大監と侍読をやめ、間十月二十二日、民部省大丞兼寺院頭に任ぜられた(明治史要)(秋月種茂と秋月種樹〉。第6章秋月従四位任民部大丞兼寺院頭右宣下候事庚午(明治三年)閏十月太政官秋月民部大丞兼官専務被ニ仰付-候事庚午間十月太政官(藩尾録、巻之四)文部省編の「学制百年史」は、「大学規則」・「中小学規則」について、「実施されるには至らなかったが、全国的組織の総合的な学校設置計画であり、学制発布以前の学校設置計画として注目すべきもの」と評価している。第六節版籍奉還と廃藩置県慶応四年二月三日に島津久光の使者園田彦右衛門、久藩論の報告保田新次郎がもたらした王政復古の布告文に、藩主種肢は新政府に協力の答書を出したが、これと相前後して日向のほかの三藩も新政府に協力するということで、足並みがそろった。鎮撫総督へこれよりさき、慶応三年五月に幕府は、日向の幕領地の支配を諸藩にゆだねている。宮崎郡・那珂郡にある八、九四四石余を伊東祐相に、臼杵郡・諸県郡にある九、000石余を内藤政挙に、秋月種般には児湯郡・諸県郡にある八、八七一石余を、防御筋行き届くようにと預けた。種股は次の請書を差し出している。一筆啓上仕り候。西国筋御郡代窪田治部右衛門支配日向国村々の内私江御預所仰せ付けられ候問、非常の節防禦等行届候様仕るべく、尤も高附の義は追って江戸表にて御達に相成り候筈に付、委細の義295