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概要

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ヨ」円説明ニーゐ』荷主_.一一二一公議所日誌(明治2年の官報議事録の日誌の前身〉議長秩月右京亮の名が見える(高鍋図書館蔵〉世近第4編ごとく記されている。喝、、玄藩士)を取調掛に任命し、広く万国の制度を考え、事理適当な議事を行い得る方法組織を取り調べさせることになった。東京の旧姫路藩邸を公議所とすることが定められ、翌明治二年二月を期して開議することを予告し、諸藩は公議人一名を選出するよう達せられた。取調掛の努力によって「公議所法則案」が成り、同二年三月七日、詔書が漁発され、閲議式が行われた。議長秋月種樹は、直垂狩衣を着けて威儀を正し、謹んで詔書を捧読した。公議所日誌巻頭に次のおおぎまち明治二年己巳三月七日公議所開議ニ付、議定正親町三条前大納言、軍務官准副知事久我大納言、弁事大原少将、議長秩月右京亮ヲ初メ、神祇官権判事古川三郎、会計官判事長谷川三郎兵衛、刑法官判事佐々木三四郎、議事取調御用掛ノ面々、直垂狩衣着用、諸藩公議人二百廿七人、礼服着用ニテ同日第十二字(時〉公議所へ出仕、公議人しゅゅ一同闇取ニテ席順ノ番号ヲ定メ着坐ス。須央ニシテ議長秩月右京亮詔書ヲ読上ル。一同平伏拝聴ス。詔書を読み上げ終わって、五か条の議案を各議員に配布して開議式は終わった。我が国の議会史の幕明けと言ってもよいであろう。二、七日を議事の定日としていたので、第一回は三月十二日に聞かれた。一口同鍋藩の公議人は坂田秀であった。奏は三月十七日の第二回目の会議で六名の議員幹事の一人として選ばれている。種樹在任中に可決された議案の二、三を挙げると次のようなものがある。294O御用金ヲ可v廃ノ議O里数改定ノ議(三六町一里)公議所書記小野清五郎提出(三月十七日)福知山議員中野斎提出(三月二十七日)O通称ヲ廃シ実名ノミヲ可v用事、マタ官位ヲ以テ通称一一換ル等ノ弊モ矯シ、上下一般実名ノミ可ν用事軍務官森金之丞提出(四月(公議所日誌)七日〉四月六日、公議所制定の功により金一万疋の下賜を受け(藩史摘要)、四月十九日に議長を免ぜられた(明治史要〉。新教育制度の基礎作りこれよりさき、議事体裁取調掛として議会制度の調査を始めて間もない元年十一月二十一日に、学校取調兼任の辞令を受けた。議事体裁取調と同じく、山内容堂と種樹を主軸として新しい教育制度の基礎作りを始めようと、政府は容堂を知学事に、種樹を判学事に任命した。種樹は徳川幕府の学問所奉行として昌平餐の改革に当たった経験があった。同二年四月、公議所の議事運営が順調に軌道に乗ると、議長を大原重徳に引き継ぎ、副知学事となり、新時代に即した教育制度の在り方に関する取り調べに専念することになった。しかし侍読は元のまま継続した。明治二年七月の官制改革により、教育行政官庁として大学校が設けられた。これは後の文部省に相当するものであった。八月職員令の改定により知学事を廃し、大学校の長官として別当が置かれ、容堂に代わって民部卿兼大蔵卿の松平慶永(春撮)が別当を兼任した。大学校は本校(昌平学校〉、開成・医学両校を管理するほか、病院を監督し、国史を監修