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概要

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るよう命ぜられた(続々実録、巻之十四)。九月八日、明治と改元、元の制、すなわち天皇一代は一つの年号を用いることになった。天皇の東京行幸は九月であった。二十日京都発、十月十三日に東京に到着し、その日のうちに江戸城を皇居とし、東京城と称することが定められた。天皇はいったん京都に還御されたのであるが、種樹の進講は多忙な聞にも続けられ、資治通鑑の進講は極めて高く評価され、在京の諸侯にも陪聴が許された。安田尚義著「秋月種茂と秋月種樹」には、東京城日誌、中山忠能卿の手記を引用して次のごとく記している。東京城日誌には御駐整中(明治元年十月から十二月まで〉の日課が世次のごとく記してある。一・六ノ目。御休日。二・七ノ目。朝御手習、昼、史記御講義。御学問所。三・八ノ日。朝、保健大記御輪講。昼、御馬。四・九ノ目。朝、御手習、昼、神皇正統記御輪講。五ノ日。資治通鑑御講義、小御所。右のうち、史記と資治通鑑の講義は種樹の進講であるが、特に資治通鑑の講義の際は、東京在留の諸侯にも陪聴を許され、質疑応答も苦しか藩末変動期の高鍋らずと仰せ出された。ざれば十月二十五日の東京城日誌に、小御所ニ於テ聴講御開窪、秋月右京亮ヲシテ漢記ヲ講ゼシム。東京在留ノ諸侯、鐘ニ陪シテ聴講ス。・えい漢皇祖の葡たる種樹に取っては、天皇の大前に漢紀を講ずるのであるから、いっそう感慨の深かったことと思われる。なお中山忠能卿の手記によると、明治元年末ごろの御日課は次のごとくであった。第6章一・六ノ目。御休日。一一ノ日午後、御手習。帥宮。七ノ日午後、史記御講義、私月。三・八ノ目。午後、御馬。四・九ノ目。午後、神皇正統記御輪講。五ノ目。午後、資治通鑑御講義、秩月、於小御所、公卿諸侯聴。十ノ目。午後、保健大記御輪講。此外高辻当番之節、御読合、御復読、上ゲラレ候事。また、明治二年四月十二日の太政官日記に記載されている改正日課表によると、種樹は、詩経・資治通鑑・貞観政要を月のうちに二四日進講している。資治通鑑・貞観政要は帝王学ともいうべきもので、これによって若い明治天皇の君徳極養に貢献しようとし、月にわずか六日しか休まなかったということは、種樹の持っていた教育目標がどんなものであったかを推測し得るとともに、その熱意を見ることができる。侍読は明治三年七月まで続いた。種樹は侍読として多忙な日を送るとともにそのほかの重要な職務に就き、新政府の政策推進に当たっていた。慶応四年七月二十三日、下局の議長を兼任して種々の議事に当たった。下局の議員は各藩の藩論を代表する貢土で、下局は上局の命を受けて、租税、駅逓、貨幣、権量、条約、内外の通商、宣戦講公議所議長その他和、招兵、緊糧、丘(賦などを議するところで、現在の議会に類する。しかし、まだ代議機関としては不完全なものであった。そこで政府は、明治元年九月十九日、議定職の山内豊信(容堂)に議事体裁取調総裁を兼任させ、弁事兼議長の種樹を副総裁格とし、福岡孝弟(土佐藩土)、大木喬任(肥前落土)、鮫島尚信、森有礼(以上薩摩藩土)、神田孝平(駿河293