ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
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世丸は大破しながらからくも逃れた。このとき江戸市中では専ら撃沈説が行われ、種樹も乗船していて遭難したとの説が行われた。このとき幕吏が火中に得た文書のうちに、右京亮を薩州船に乗船させることについての文書があったからである。秩月家の親戚である仙石政固侯が駆けつけ、種樹の健在であるのを見て大いに喜び、その取りなしで種樹は登滅し、老中稲葉美濃守と対談数刻に及んだ(泥谷直養「黒水(鷲郎)翁九十年の生涯」)。近第4編種樹の若年寄辞任が認められたのは、慶応三年十二月二十五日、薩摩藩邸の焼き討ちのあった日になっている。一内願之趣モ有ν之候ニ付御役御免。秋月(師叫樹〉右京亮(徳川実紀)この後一週間後に鳥羽伏見の合戦が起こり、幕府軍は手痛い敗北を喫したのであった。薩摩藩邸焼き討ちのとき、高鍋藩に波及した事件があった。芝の薩摩邸と麻布の高鍋藩邸は徳島藩蜂須賀邸のある岡一つを隔てているだけでほど近い。薩摩藩邸の副留守居役脇田市郎はわずかに身をもって逃れ、高鍋藩邸に保護を求めて来たのである。藩邸にあった奉行黒水鷲郎は、甥水筑弦太郎に命じ脇田を伴うて京師に逃れさせようとし、鈴木来助も協力して三人で江戸脱出を謀った。不幸にして駿河国の宿駅原で幕吏に捕われ、江戸深川伝馬町の獄に投ぜられた。弦太郎は牢疫にかかって獄中に死亡し、ほかの二人は後日釈放された。弦太郎は時に二五歳、後に靖国神社に合-相された。新政府の参与となる種樹の若年寄問題については、京都でも城勇雄・水筑しげとみ小一郎らが心配し、権中納言大原重徳に斡旋を頼んでいた。大原は公卿衆きつての尊王論者で、文久二年には島津久光を従えて江戸に下向し、幕政改革に当たるなど終始尊援派の先頭に立っていた。重徳は種樹の立場を援助するため、朝廷から種樹を召すこととし、次の御沙汰書を渡した。292秋月長門守昨年被v召候処、所労に付名代として秩月右京亮上京可v致之旨に候得共、上京無v之候問、早々上京可ν有v之候事。正月岡本恭平はこの書を持って直ちに江戸へ急行した(続々実録、巻之十三〉。種樹は二月十日、京都妙心寺内の長興院に入り、十五日参与に任ぜられた。参与は議定に次ぐ要職であった。徳川氏が大政を奉還して天皇親政となり、摂政・関白・征夷大将軍以下の従来の織を廃し、慶応三年十二月九日新たに総裁・議定・参与の三職が置かれたのであった。当時、大久保利道・井上馨・柳原前光・西郷隆盛らが参与であった(明治史要)。二月二十七日、種樹は内国事務局権輔を兼任した。同年間四月、五箇条の御誓文の趣旨に基づいて、立法・司法・行政の三権の分立を明らかにするため、官制を改定し、太政官を分けて議政・行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法の七官を置き、議政官は立法を、刑法官は司法を、その他の官は行政を担当することになった。種樹は行政官の弁事に補せられ、六月十五日明治天皇の侍読を兼ねることになった。嘉永五年(一八五二)まだうら若い天皇の教育に携わることになったことは、その生涯において最も光栄な任務であったに違いない。慶応四年八月二十七日、京都御所の紫度殿で天皇即位の大礼が挙げられた。天皇は一七歳であった。秋に東京行幸がある予定で、大礼の翌二十八日、種樹に供奉す明治天皇の侍読となる生まれの、