ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
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明治二年六月二日、北越地方転戦の戦功を賞し、各藩に対し勅語を下し、賞賜が行われた。秩月長門守には、賞典禄八千石が下賜された。藩では翌七月、征討従軍の戦功を賞し、全員に知行加増の行賞がなされた。賞典禄と賞賜征討の総括に当たった武藤東四郎に指料万一腰と永年高二五石の加増を最高として、一五石、二ニ石、二一石、一O石、八石、七石、五石、三石とそれぞれ差があった。病死した山内才次郎と甲斐数太郎の従僕で戦死した甲山金吉には金一五両、夫卒の日置郷の多士口、福嶋の善践に八両が贈られ、そのほか夫卒全員に永年畠地物四俵が授けられた。舞鶴公園の舞鶴神社鳥井前から本丸跡広場に登る長い石段の中間に、亀の形をした石の上に立っている石碑は、戊辰殉難招魂の碑である。元は谷坂の招魂台にあったのを移したもので、明治七年の秋月種樹の自筆撰文である(落尾録、巻之一)。第五節秋月種樹と新政府藩末変動期の高鍋慶応三年一月、幕府は再び種樹の重用を考えて、若年寄に任命しようとしていた。それを知った高鍋藩の重臣たちはその対策に苦慮した。特に前回の若年寄格ならびに学問所奉行を辞任させるために、種樹のために尽力した城勇雄、水筑小一郎、黒水若年寄辞任f尚む第6章鷲郎らの心配は非常なものであった。江戸表では奉命はやむを得ないとし、その旨を閣老に返答をしたものの、在所の高鍋と相談のため猶予を請い、正月早々大坪勝太郎が江戸から帰って来た。惣奉行の城勇雄は、今はなすべからざる形勢であるから辞退なさるべきであり、就任されるとすれば補佐の方法がないので、参政補佐の役を辞退する以外にないと強く反対し、水筑小一郎も強く反対し、たとえやむなく任命されても早速辞職なさるようにと進言したのであった。しかし、幕府は同年六月二十一日、種樹を若年寄に任命した。慶応三年六月二十一日若年寄柳之間席(種樹〉長門守養子秋月右京亮秋月右京亮。若年寄被ニ仰付一候ニ付。詰合布衣以上之面々。蓉間二老中列座。(稲葉)美濃守演達之。若年寄中侍座。同二十二日秩月右京亮。御圏内御用筋引受取扱。役名唱替。於-一芙(徳川実紀)種樹は藩論と同じく尊王援夷に同調し、信頼する重臣などの勧告もあり、幕府の命に応ぜず病と称して出仕しなかった。幕府はしばしば出仕を促し、医師を遣わし診断させるとまで言って強要した。藩邸の里山水鷲ていは〈しようほうまる郎らは、ひそかに薩摩藩に依頼し、品川湾に碇泊中の薩藩の汽船朔鳳丸に種樹を託して、江戸を脱出させようとした。朔鳳丸は十二月二十五日出発の予定であったが、薩摩藩に急に故障が起こり二日ほど猶予されたいとの連絡があった。当時芝の薩摩藩邸には、西郷隆盛の命を受けた伊か〈らん牟田尚平、益満休之助がいて、浪士を使って江戸市中の撹乱を企てていた。江戸討伐の口実を得るためであった。挑発に乗った庄内藩兵などが薩摩藩邸に焼き討ちを敢行したのが、たまたま十二月二十五日の夜明け前であった。薩摩落邸の留守居篠崎彦十郎ら四九人は討死し、益満らは捕えられ、伊牟田尚平ら三O人ほどは朔鳳丸で大坂に向かって逃れ去った。幕府の軍艦、開陽・回天・朝陽の三隻がこれを追跡して砲撃を加えたが、朔鳳291