ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
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世山岡闘太郎近半隊長分隊長荒川小文次務導鈴木喜之助第一押伍上野平一郎九月二十五日正午、急飛脚として高鍋兵河野又助がやって来た。上江屯兵一小隊五O人が増援隊とみのるして新発田に到着したことを知らせるために、塙援隊長横尾潜蔵(一栗〉が出した急使であった。高鍋隊の喜びは大きかった。隊長手塚士ロ康は新発田まで急行した。武藤東四郎初め、隊員に対し務主の感状も届けられていた。第4編増援隊の到着と庄内藩の降伏そればかりではなかった。二十七日朝八時、庄内藩が降伏したことを本軍から知らせてきた。直ちに進軍すべく達せられ、高鍋隊と水戸一小隊が先鋒として鶴岡城に向かい、二十八日午後四時、鶴岡城大手口に着き城下町に宿陣した。東北遊撃軍将久我卿が鶴岡城を接収したのは十月三日であった。高鍋隊は四日出発、七日平林着、隊長手塚士口康が急行して新発田まで行くと、坂田潔が木営の命を受けて次の御沙汰書を渡した。凱旋秩月今般奥羽越諸賊降伏、略ボ鎮定ニ及ピ候条、全ク以テ各藩尽力、諸兵隊苦戦ノ義ト深ク大義一一思召サレ候。尚ホ追テ仰セ出サレ候旨モ有之ベク候へドモ、一ト先ヅ帰休致スベク候ヨウ御沙汰候事月帰休の御沙汰が正式に達せられたのである。がいせん高鍋に凱旋したのは十二月二十二日正午過ぎであった。病死者は次の人々である。戦傷後死去〈贈奉行)戦死小隊長(贈小給)兵士(贈小給)(贈小給)(贈徒土)(贈徒土)同|司同同同(贈徒士)(贈徒士)(贈足軽)戦傷後死去同戦病死谷坂の宮軍墓地月番家老へ帰国報告を終わると、八幡宮、白山宮、天神宮に参拝奉告、大龍寺、安養寺、龍雲寺に参拝、それより、谷坂に去る十月(八日建設指示〉設けさんけいられた招魂台に参詣した。台上には祭壇が設けられていた。一同整列すると明倫堂助教が祭文めいふ〈を読み、一同拝礼して冥福を祈った。その場で解散し銘々我が家へ帰った。福嶋の人たちは城下町に一宿、翌二十三日早朝六時帰郷の途についた。戦死、戦290福鈴崎木来助衛房良一重範坂田正太郎諸道松田充平次貞克小島和兵衛高弘吉田兵太郎時治杉昧太郎一足綾部末五郎幸利甲斐数太郎家臣甲斐金吾山内才次郎孝忠(北征記・続々実録)