ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
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藩末変動期の高鍋しばたれた。八月九日新潟出発、新発田から黒川へ進み、十三日村上城下に入ったが、域にはみずから火を放って退散し廃撞となっていた。高鍋隊は城北の専念寺を本陣とし、坂野口と羽黒口の城門の守衛を担当した。十しゆこう五日夜は仲秋の名月で藩から慰労の酒肴が下された。隊長鈴木来助は、明倫堂教授日高明実の二男で鈴木百助の養子となった人、文武両道に優れていた。感懐を七絶に賦した。シヲシヲタヘさ〈ヲグヲノすべてタ今夜仲秋会-一将士一賦二詩横ν梁挙ニ青樽一桝域第宅都無ν主明月一痕照一一廃園一二十一日、村上を高田藩に託し、二十五日山熊田に達したが、敵陣の防衛が堅く進むことができなかった。岩国(長州)福知山(京都〉の両隊と連携を保ち、高鍋隊は羽越国境の大鳥を奇襲して庄内兵力の分散をかんげき図り、間隙を衝いて岩国、福知山隊が進撃するなど知謀を傾けたが、戦闘は激烈を極め、双方多くの損害を出し、二十八日ようやく赦は攻撃を断念して後退した。高鍋隊は戦死六人、負傷六人で、戦死者の中には副隊長福崎良一がいるという大きな痛手を受けた。山熊田は要衝の地であるが、守るには不便な地形であるため、友軍や中軍と連絡を取り、いったん中継(地名〉へ引き揚げた。いかずもそれから七、八日たつと庄内藩の兵は、雷村から小股にかけて充満するに至った。九日参謀会議の結果、小名部口、雷村口、大代村、山熊田口-V-諸藩の兵で抑え、薩州二小隊、高鍋一小隊が関川を攻略してその退路を断つことに決した。十一日の早暁に大代村から真っ直ぐ関川に向かって進むと、ここは羽越の分境で通路もない深山幽谷に踏み込み、敵状が全く分からない。斥候の探索によって夕刻七時、かろうじて関川村に出て、無二無三に銃弾を打ち込み、激闘の末、敵はついに十数人の遺体を見捨てて北方越沢村の方へ逃走した。高鍋隊は戦死一人、重傷二人、第6章軽傷二人であった。十二日逆襲あり庄内士官一人を倒した。関川村の各所を諸藩と守衛していると、十六日早朝、庄内兵約三OOが来襲した。この日の戦状報告書を「北征記」は次のごとく記している。九月十六日、羽州関川村処々ノ山々峰々ニ諸軍分配シ、守衛堅固-一仕居候処、早天圧内賊、前面及、ヒ右側ノ山嶺ヨリ一時二襲来発砲。諸軍待チ設ケタル事ナレパ即チ応砲仕リ候内、弊藩兵員極メテ無数(小数の意)ノ上、持場ハ山上ノ要地-一テ、タトへ諸藩ノ塁ハ金鉄ノ守リ有リトイへドモ、此ノ塁崩レ候ヘバ各塁壊敗相成ル可ク候-一付、辛苦防戦ノ折柄応援ノ薩兵既ニ相継ギ候故、則チ奮戦、進ミ林樹ノ間一一伏シ、敵卜其ノ間三、四間一一テ苦戦賊ヲ射倒ス数名。内一人庄内四番隊前軍第一小隊長安部藤蔵一一御坐候。折柄賊兵一手、右側ノ嶺上へ廻リ横矢ヲ射候故、前面及、ヒ右側ノ敵ヲ引受ヶ、尚ホ不退、無二無一ラ一射出シ数時防戦、諸軍競フテ奮戦遂一一賊ヲ射散シ各塁守衛仕リ居リ申候。此日弊落手負左ノ通リニ御坐候。銃剣鈴木右戦状ノ概略不取敢御届仕候以上。隊長来助九月十七日高鍋隊長士口康武藤東四郎手塚御参謀御中もりふさ鈴木来助(衛房)には荒川梅太郎が付き添い、中継へ送り、野戦病院へ収容されたが、十月五日新潟野戦病院で、役した。二七歳であった。鈴木隊長の重街、多くの戦死、戦傷者が出たほか、病人もあった。九月十九日、高鍋隊の編成を替えた。隊長手塚289-=1コ3コ康小隊長立山正之介