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概要

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世同式部大輔(茂憲)様時候一通。然者今般松平肥後(容保)伏見暴動-一付、御征討仰セ出サレ候処、無名ノ軍ヲ挙ゲ官軍-一抗シ、幾多ノ生霊ヲ殺害シ、ソノ罪天地ニ容レ難ク候程ノ義-一候処、妄言調ワレ無キ筋ヲ申立テ、御宥恕嘆願書、尊藩へ御取次ギ頼入候ニ付テハ、肥後願書ノ意味一一御同意ノ御添書ヲ以テ、猶又御寛容相成リ候様御願立テ相成リ、依ツテ御不審ヲ以テ此度御家来入京御差止メ仰セ出サレ候きょうがい趣御窓知成サレ、御驚骸思召シ候。右ハ定メテ言フベカラザルノ御子細コレ有リ候故ノ御事一一モ在ラセラルベク候へドモ、伏見一条ノ義ハ、理非分明三尺ノ童子モ知ル所一一御坐候故、既ニ慶喜モ期スル如グ恭順、右ニ付格別ノ御寛典ヲ以テ、家名相続、大落諸侯ニ御取立テ相成リ候。然ル処会津-一於テハ、朝廷ヨリ仰セ出サとぎレ候通リ、封境ヲ鎖シ、東北諸路王土ヲ掠メ、諸侯ノ居誠一一人数ヲ分配シ暴威ヲ張リテ所々ニテ官軍一一抗シ候叛蹟顕然ニ御坐候。然ルニソノ逆意-一与シ、願書ニ御添書御差出シ御坐候テハ、名義如何アラセラルベキヤト思召候。御家ノ義ハ御先祖様謙信公以来、格別ノ御名義御分明ノ御勤王ニ有ラセラレ、御近来辱グモ鷹山侯御英名ニテ、御家政向行キ届カセラレ、諸大藩中一一於テモ御美名輝カセラレ、古今共別段ノ御家筋一一御坐候故、今度ノ仰出サレ御伺ヒ成サレ候テハ、実以テ恐催至極一一思召シ候。右ニ付キ、甚ダ近第4編御出過ギノ御事一一ハ御坐候へ共、御近親様ノ義一一ハコレ在リ、其ノ上両殴様別段御懇篤ヲモ在ラセラレ候事故、御遁んベ御使者御差立成サレ候。何卒事蹟御熟慮ノ上、天朝へ仰セ立テラレ、然ルベキ筋ニ一候ヤ否ヤノ義御再考有一フセラレ、若シ御悔悟モ在ラセラレ候ハバ、早々御上京御願立テ相成リ候テハ如何在ラセラルベキ哉。御家ノ汚名蒙ラセラレ候ヨウニテハ、何分鷹山様へ対セラレ候一アわざわざモ済'マサレズ、且ツハ安カラズ思召シ候問、態んベ仰セ進ゼラレ候。此ノ度ノ義ハ容易ナラザル大儀ニ御坐候問、早急御熟評、名義方向御決着御坐候ヨウ、クレグレモ厚ク仰セ進ゼラレ候ニ付キ、御潟容進ゼ成サレ、右京亮様(種樹)御心情篤ト御扱ミ取リ、御安心ノ御答エ進ジ成サレタク御頼ミ思召候。288(武藤東四郎、北征記)真情のこもった説得内容であった。米沢藩は加盟中の事故、使者派遣を内密にするわけにいかず、参与、輔相方へ家老より伺ったところ了解の含みを与えられ、江戸へ到着のうえ、総督の指示を受けて米沢へ潜行せよとの内々の差し図であった。六月十三日、両人は京都を出発し、江戸に着き総督府へ伺うと、賊鋒が激しいのでしばらく見合わせよとのことで、やむなく滞在した。ようやく七月になって賊勢衰弱の模様だから出かけるようにという差し図があった。二人は、白河口から二本松へ潜行した。そこで同じく米沢藩の親類筋に当たる土佐藩の密使沢本盛弥と偶然落ち合い、ともに苦心して米沢に達した。口上を申し入れたところ、上杉斉憲・茂憲は一方ならず感激し、直ちに降伏を決意し、弾正大弼斉憲は岩村虎維の付き添いで会津の官軍へ、式部大輔茂憲には坂田潔が付き添って新発田の兵部卿仁和寺宮嘉彰親王の下に降服嘆願書を捧呈して直ちに受け入れられたのであった。色部長門の討死が高鍋藩兵によることは、いたずらに他藩の兵の手にかかるよりむしろ幸いであったという米沢藩の心情を、坂田潔が武藤東四郎らに伝えたのは、この後のことであった(続々央銀)〈北征記)。新潟攻略の後、会津の攻撃に移ったが、一軍を割いて鶴岡(庄内藩)攻撃が行われ、高鍋隊はこれに加えら山熊固と関川の激闘