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概要

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河野同太人以下二一人第三分隊松田仲治以下一二人同第四分隊清水加太郎以下一四人旗長金沢恒太外従僕夫卒A四A人雇人夫(柏崎まで)一O人合計二O人藩末変動期の高鍋六月二十二日、京都藩邸を出発し、兵部卿宮の指揮下に入り、琵琶湖西岸は洪水により通路破壊のため、東近江路を通って敦賀に出て、兵部卿宮は越後の柏崎まで船行、七藩の兵は陸路を進み、七月七日福井に着陣、十日金沢、十二日高岡に着くと、負傷者十余人を戸板に乗せて来るのに出会った。聞けば七月一日敵が高田に夜襲して来たときの負傷者であるということであった。当時、猛将河合継之助は、いったん失った長岡城を奪回し、しばしば官軍の前線を脅かし、総督官の本営のある柏崎の前線も急を告げていた。そこで衝背軍を組織し、背後から新潟を攻略する作戦が取られ、高鍋隊もこれに参加することになった。七月二十一日、筑前の蒸気船大鵬丸に明石隊などとともに乗船し、いったん佐渡の小木湊に入港し、新潟の攻略第6章二十しれつ五日、阿賀野川河口の北方に上陸して新潟攻撃に参加した。連日蛾烈な戦闘が続けられたが、二十九日は最も激しかった。高鍋隊は出来島から渡河して新潟に繰り込み、山の手へかかる所で米沢兵=一、四十人と出会い、激しい銃撃戦の末、四、五名を倒した。その中に米沢藩の総督色部長門の遺体があり、首は切り取られていた。従卒が持ち去ったのであろう。色部は奥羽連盟における米沢藩の首謀者で、長岡藩の河合継之助らと肩を並べる人物であった。奥羽連盟軍はこの日をもって敗退した。新潟の敗北により、長岡城も陥落し、河合継之助は銃創に苦しみつつ、会津を目指して落ち行く途中、会津領塩沢村で没した。武藤東四郎の書いた戊辰戦争の日記「北征記」の十月十一日に次のごとく書かれている。十一日、滞在(新発問)。坂田潔来テ米沢ノ事情ヲ告グ。色部長門ヲ藩兵(高鍋)ノ手一一掛ケケルヲ、米沢一一テハ反ツテ喜ブト云。もるきょと記されている。坂田潔(後に諸潔)は岩村虎雄とともに、別途米沢に勧降のため派遣されたのであるが、その帰途越後に立ち寄ったのである。坂田潔と岩村虎雄の両名が米沢に勧降の使者として米沢への使者派遣されることになったのは、高鍋隊が北越へ出発する一O日前六月十二日であった。右京亮は親類筋である米沢藩が、奥羽越列藩同盟に加盟し、朝廷に抗戦していることをたいそう心配した。わしおはぐさ対外関係担当の黒水鷲郎(長憧〉が中心になって、岡本恭平、坂田泰以下者頭有志と相談し、使者を派遣して早く朝廷に恭順の意を表するよう説得することにした。もちろん容易でない使者であるから、去年の冬からこの春までの事情をよく心得、殊に敵地侵入のことゆえ死を恐れず、緩急に処する弾力性のある人物でなければならない。内々両人が引き受けたいというので差し遣わすことになった。もっとも身分も与えなくては、先方の取り扱いもうまくいかないので、両人に者頭の身分が与えられた。このとき岩村虎維が二五歳、坂田潔が二四歳であった。そして次のような口上書を持たせた。287上杉弾正大弼(斉憲)様