ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
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は堤団之進(長発の養父)と水筑小一郎(秩月左都夫の父)であった。将軍の大坂入滅は、元治元年(一八六四)一月六日であった。これより、かの横浜鎖港問題や、長州藩対策などを主題とする参予会議が朝廷内や二条城で聞かれたのであった。その聞に種樹は数回宮中にも参内している。種樹が将軍に従い軍艦に便乗して江戸に帰着したのは五月二十日であった。このときの将軍の上洛は、公武合体の体制を固める上から比較的順調であったが、後に複雑な問題も多く残した。種樹は、京都に集約されたふ〈そう形で見られる天下の隔膜の姿に、種々思うところがあったのであろう。学問所奉行ならびに若年寄絡の辞任願書を差し出した。私儀、存じ寄らず御抜擢を蒙り御役儀仰せ付けられ候へども、天性愚妹その上多病に罷り在り、当今容易ならざる御時節所詮相勤め候様御座なく、恐れ入り奉り候。依って学問所奉行並びに若年寄格御免成し下され候ょう、此の段恐れながら願ひ奉り候。以上。私月右京亮〈務史摘要、乾)五月二十六日翌二十七日に御用番井上河内守の達しによって登城すると、聴許の達しがあった。徳川実紀に次のごとく記されている。藩末変動期の高鍋私月右京亮内願の通り学問所奉行並びに格式(若年寄格)御免成され候へ共、以来日々奥へ罷出、御教授御相手致さるべく候。且又、年始、=凡五節句、朔望、その外共表出礼の節は、奥へ罷出で候様致さるべく候。八朔、第6章また、六月七日に回安仮御殿で井上河内守から次の奉書が渡された。学問所和学所へも折々相越し心付の儀は学問所奉行林大学頭、林式部少楠へも申し談じ候機致さるべく候事。(続々実録、巻之九)更に九月二十二日老中連名の奉書があり、登城すると、若年寄格勤役中、将軍上洛の御供精勤の賞として、腿前国藤原兼正の万(長さ二尺三寸七分、本阿弥折紙付き)一振りが授けられた(藩史摘要、乾)。第四節戊辰戦争と高鍋徳川幕府は、その威信を国の内外に失墜し、慶応三年(一八六七〉十月十四日、ついに大政を朝廷に奉還するに至った。同年十二月九日、小御所会議は、徳川慶喜の内大臣の辞任と領地返納を決定した。一方会津・桑名両落の薩摩・長州に対えんする憤怨殊に甚だしく、たまたま江戸薩摩邸襲撃のこともあり、慶応四年(明治元年)一月三日慶喜は君側の姦を払う名目で鳥羽伏見に戦い、一敗地にまみれて大坂に退き、ひそかに軍艦に乗って江戸に帰った。戊辰戦争の発端であった。朝廷は慶喜以下の官爵を削り、有栖川宮蛾仁親王を征討総督とし追討の軍を発した。参謀西郷隆盛と勝海舟の会談によって戦火を交えず江戸城を接収し、慶喜は恭順の意を表して水戸に移った。旧幕臣の一部はしようぎたい彰義隊と称して上野寛永寺に抗戦して潰えたが、奥羽と越後の二五藩は、奥羽越列藩同盟を結成して抗戦したために、奥羽地方一帯を戦場とするせいさん凄惨な内乱に発展した。戊辰戦争の発端これよりさき、慶応三年十月、朝廷は十万石以上と以下に分け諸侯を相次いで京都に招集した。種肢は、病気の放により世子種樹を代わらせることを願い出て許された。慶薩藩の布告文285