ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
- ページ
- 16/92
このページは ac_cho_0008-3_takanabe の電子ブックに掲載されている16ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは ac_cho_0008-3_takanabe の電子ブックに掲載されている16ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
ac_cho_0008-3_takanabe
世すると予期に反して学問所奉行を免守するという命であった。一同大いに失望していると、そのタ再び御用召の使いが来た。一同は前日にこりてあまり期待していなかった。翌二十六日、種樹が登城すると願いのとおり秋月家養子の承認であった。前日の学問所奉行免除は、幕府の役職のまま藩の世子とすることはできないので、いちおう職を外されたのであるという。養子を命ぜられたうえで、改めて再び学問所奉行に任ぜられた。藩主種股初め、落を挙げての喜びであった。城勇雄と財津十太郎は、そせい藩全体の願望を達し使命を果たして初めて蘇生の思いであった。ただ、財津十太郎は父善輔がこのことを知らないで没したことを悲しんだ。滅勇雄から政太郎種樹の養子請願を達成するためには、十太郎の相役が絶対に必要だと同行を請われたのは、父善輔が老病のため、命且タに迫る危急のときであった。十太郎は暇を願い出て父の見取りをしていた。父善輔は昨日城勇雄が請願の命を受け、今日十太郎が登城を命ぜられたのによって事を悟って十太郎にいった。休暇中に急登城を命ぜられるのはぎみただごとではない。たぶん近ごろ聞いている政太郎君の世子問題であろう。政太郎君はお前が多年近侍した人、全力を尽くすがよい。死生は天の命ずるところ、父のことは心にかけるな。世子問題が解決し家国が安めいも〈泰となれば、自分は欣然として膜目することができる、というのを聞いて十太郎は家を出たのである。父善輔はもとよりほどなく亡くなったのであった。十太郎は松本坂ほとりの父の墓前にぬかずき、世子問題の成功を報告するとともにその霊の加護を謝した(国儲定策志・竹窓年世間〉。若年寄格・将軍同年九月二十七日、老中連名の召出状によって近第4編の侍読とその辞任馬遠江守道純から次のとおり達せられた。諏訪因幡守格式の通り種樹が登城すると、老中列座の中で用番老中有勤方の儀は申渡す。入念勤め口。284右上意学問所奉行是までの通り。御学問御相手仰付らる。(藩史摘要、乾〉「藩史摘要」には「諏訪因幡守格式の通」の下に次のように説明が記されている。「若年寄通りの御勤と申す事の由。諏訪様御筆頭にてケ様上意の趣、尤も表御沙汰には若年寄格に成り候ものの由。」若年寄は老中に次ぐ要職で、通常小禄の譜代大名が任命された。「御学問御相手」とは将軍の教育担当である。林小源太が言ったとおり、いよいよ幕府の政治に参与することになったのである。同年十一月には外国との折衝の任務が与えられた。それは文久三年の初めに、将軍家茂が上洛した際、朝廷から横浜の開港を停止すべき命があり、その交渉のため外国に適当な人物を派進しようとし、種樹を任命したのであった。種樹は務の重臣に諮った。隈江五郎左衛門、堤団之進、水筑小一郎、武藤東四郎、泥谷敦水、森孝之進らは合議して慎重に検討し、これを阻止することとした。堤団之進が老中に会い、種樹の健康状態はもとよりそのほかいろいろな点から詳細に事情を述べ、差し替えを懇請して了解を得ることができた(落史摘要)。代わりは池田筑後守が行くことになるのである。十二月には将軍家茂の再度の上洛について先発を命ぜられた。前回は学問所奉行としての随行であったが、今回は若年寄格としての先発および随行であるから責任が重かった。十二月十三日築地の水門をたって品川沖から軍艦に移乗し、十八日に将軍の上陸地となる兵庫の海岸を検分し、二十日に将軍の宿所となる大坂城を詳細に検分している。種樹の供