ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
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のように語った。落末変動期の高鍋何か月もの問、世子問題についての御苦心、私も御心情を察しないわけではないが、事は機密にわたり漏らすわけにいかないので黙止して今日に至りました。主君図書頭は既に老中の職務を離れましたのでお話ししましょう。ただいま朝廷と幕府は表面は和し内面は背ふていせんどうき、不運の輩がみだりに京師に集まり堂上の貴紳を煽動して幕府を苦しめようと謀っています。このようなとき、賢明の人を得て幕府を維持することが大事でありました。宗室御三家はもちろん、御家門溜詰に至るまで協議し人材を求めています。右京亮殿は学識識見ともに抜群の人、幕政の枢機に参与させるため特に学問所奉行の一職を設けて右京亮をこれに当てた次第。高鍋藩の世子となることを認めれば何故に外様の者を幕職に就けるかと非難せられるであろうし、非難ぜらるれば職を解かざるを得なくなる。既に林大学頭およびその末家に当たる林伊太郎という人が、いろいろな人々の協力を得て信州真田家の養子にしようとしています。右京亮は、秋月家にあっては一厄介入にすぎず、たとえその家を継いでも、秋月家は外様でしかも小藩にすぎない。とてもその優れた才能を伸ばすことはできない。日州に帰ることにでもなれば幕府のためにもならない。信州松代城主真田氏に嗣子が無い。譜代の家柄で十四万石の大家、その家系には老中にもなった人もいる名門である。将軍の命によるbhe噌hw御威光養子として真田家の嗣子となれば右京亮の力量を揮うこともできるし、幕府に貢献することもできる、と図書頭は極力勧めています。林氏は故老中真田信濃守幸貫に旧恩があり、その恩に報い、右京亮の栄進によって立身しようとしているのでありましょう。し第6章かし尊藩からの願いがあるので猶予してまだ決しなかったわけです。しかし、真田家の養子とならなくても秋月家の養子になることは朝幕合体のときに至らぬ限り困難でしょう。しかし、右京亮殿の優れた才能人物であることを最もよく知っているのは図書一顕でありますが、今その人は閣老の職を離れたのです。ほかの閣老に依頼すことわざればあるいは成功するかも知れません。諺にも『時の役人は日の奉行』ともいい、その人が異なればそのなすことも異なるものであります。しきりに当路の人に請願すれば、あるいは速決せずとも成功することがないとも限りません。と、初めて心を割って話してくれた。養子承認を阻んでいたのは、困難な時局に当たり、幕府が種樹の人物に期待を寄せ、小笠原図書頭が幕府につなぎ止めようとしていたことであった。城・財津らも種々感ずるところがあった。真田家から種樹を養子に迎えようとする動きも警戒すべきものがあった。真田家は、老中板倉伊賀守勝静に依頼し、板倉伊賀守は、種樹が学問所奉行に抜擢される以前から、老中松平周防守康直に協力を依頼し、林大学頭およびその一族の林伊太郎たちが協力している模様であった。城勇雄らは、専ら種樹の養子願いを初めに受け付けた井上河内守正直を頼り、決定を促すことに力を入れた。財津十太郎は、井上河内守の公用人佐野十右衛門を訪ねて問い合わせ、早く取り計らわれるように依頼を繰り返した。一方、江戸邸の公用人鈴木諌五郎も、老中松平豊前守信義の公用人のところへ出向き、依頼するなど百方手を尽くし、養子承認を嘆願した。種樹世子となるこれが、ようやく功を奏したのであろうか、六月二十四日、午後三時、右京亮種樹に御用召状が来た。請願が許可されたのであろうと邸中の者は喜んだ。翌日種樹が登城283