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概要

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也ー老が「君の言う通りであるが、今国元にいる家老は手塚力之進と予と二人だけである。国政を専断してはならないことは規定されている通りである。奉行は目下三人いるが激職で一人も減らすことは出来ない。成否は運命で君の罪ではない。まげて命に従われたい」と衷情を述べて頼んだ。現在家老手塚邦之丞と奉行水筑小一郎は藩主夫人を連れ帰るために江戸に出かけている。城勇雄はいかんともしがたく、成功しなければ死んで謝罪するしかないと思った。江戸家老中村格之介は性格純良で理の通る人、奉行堤団之進、江戸留守居役団井誠助は才余り有って世事に長けた人だから、これらの人の気を損じなければともに事を成すことがで近第4編きょうと意を決して命に従った。惣奉行鈴木百助が、副使として日高儀一(後、明倫堂教授)を付けようという。城田く、「文雅の事なら日高に異存は無いが、今度の事は財津十太郎が最適であろう。財津は右京亮の学友たること数年、財津を親しみ信ずることは父兄のごとき間柄であり、説得を要する場合でもあれば財津でなければなし得ない。」と。ついに二人で行くことになった。美んベ津から最も早く行ける道は、伊予八さ向き幡浜に上陸し、讃岐丸亀から早船で大坂に着く道であると聞いて、九日美々津を出発、一昼夜で八幡浜に上陸し一月二十三日大坂屋敷に着いてみると、藩主種股は既に十二日高鍋に'向かって帰路に着いた後であった。そこで急使を高鍋に差し立て、進むべきかとどまるべきか差図を待った。十八日目にやっと手紙がきた。一月二十八日に高鍋から出した家老隈江五郎左衛門と同手塚力之進連名の手紙が赤間関経由で届いたのである。藩主は藩論を認可されたから江戸に行って事を取り進めよという内容であった。江戸に着いてみると右京亮は、二月十三日、将軍家茂の供をして京都に向かって出発していた。将軍家茂の初めての上洛で、右京亮は学問所奉行として随行したのである。江戸家老中村格之介時、世子問題についての藩状を述べた書状を京都の右京亮の下に送り、幕府へ養子願いを出すことの了解を求めた。一二月二十四日右京亮が江戸に帰って来るとその承諾を受け、二十八日に願書を幕府に差し出した。願書を受け取ったのは井上河内守正直であった。しかし、いつまでたっても幕さた府からはなんの沙汰もなかった。小笠原明山282当時幕府の閣老のうち、小笠原図書頭は老中格であっとの交渉たが人事に権力をふるっているということであった。図書頭はいわゆる三公子の一人で、唐津落の世子明山である。幸い図書頭の公用人林小源太と団井誠助は懇意の間柄であった。城・財津両名は初め誠助を通じて、後には直接に小源太に全藩の熱望の情を述べ、養子の許可を早く与えられるように図書頭に頼んでもらった。しかし、一向進展しなかった。林は、日下幕府は撰夷問題で特別に多忙で即決することができないのだと答えた。その言のとおり当時は、幕府と朝廷との聞で一般夷問題について困難な折衝の続けられているときであった。朝廷は将軍家茂に擢夷開始の期日を決定することを強く求めていた。ようやく、文久三年五月十日をもって擁夷を開始することが決められたのであったが、その直後小笠原図書頭は、元勘定奉行水野忠徳・町奉行井上清直らと約て六OO名の軍兵を率いて京師に入ろうとした。威力をもって京都を取り締まろうとしたのであろう。朝廷は立腹し、強くこれを非難し、幕府に処罰を要求し、小笠原図書頭長行は差控という処罰を受け、老中の職をとどめられた。種樹が安井息軒に書き送った書簡に図書頭明山の処罰を気遣ったものがある。明山と種樹は親しい間柄であった。この事件の直後、城勇雄は林小源太を訪れ、図書頭の処罰を傷み、永い間の斡旋を謝し、併せて種樹の世子問題の進展しない真因を尋ねてみた。小源太は声を落として次真国家、種樹を養子に望む