ブックタイトルac_cho_0008-3_takanabe
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で、まだ部屋住みの三O歳ば抜三かのな擢Eら青らと、年な言異でいわ常あo ~'d-なる30歳ごろの秋月種樹この報知はまだ公表はされないが、落臣たちは喜ぶよ落末変動期の高鍋りも動揺した。藩主種肢は既に四七歳、位継ぎとなる男の子は五人生まょうせつれたが、不幸にも皆夫折したので、藩の土民は皆、政太郎が世子となることを望み、藩内では認められた仮養子ではあったが、まだ幕府から公認された世子ではなかった。幕府に承認された世子の無い場合、藩主不慮の際は御家断絶である。士民の心配は、幕府から重要な役目と俸禄を与えられた政太郎は、やがて一家として取り立てられ、秋月家の養子となることはできないのではないかということであった。そしてその不安は、これまで数年の問、幕府に対して養子願の手続きを取らなかった家老はじめ用人奉行たちの怠慢であるという憤激に変わっていった。政太郎は妾腹の庶子で待遇はじゅうぶんでなかったが、幼にして慧敏、藩臣綾部豹蔵の指導を受け昌平聾に学び早く頭角を現した。初め西島蘭渓に就き、後塩谷宕陰に師事し、かたわら藤森天山、芳野金陵、安井息軒らの門に出入りして文を論じ、また、田口黙翁、渡辺樵山、山井介堂らを師友とし刻苦精研、宕陰の講席には政太郎の影を見ないことはなく、その才学の名は高く、雅号により楽山公子と呼ばれていた。当時、肥前唐津藩の小笠原明山(長行)、駿河田中藩の木多静山(正納)とともに第6章「三公子」の称があった。文久二年、松平春撮が幕府の総裁となり、諸政を改め文教を振興しようとして、秋月政太郎会木山)を本多伯半島百守(静山)の相役として学問所奉行としたという。しかし、幕政の枢機に参与させる意図によるものであった。者頭、給人、小給の者たちは衆議して月番家老手塚力之進に善処を要望し、手塚力之進は同僚および奉行、大目付を招いて緊急に評議した。藩主は既に参勤を終わっているもののまだ帰国していない。藩全体、が総力を挙げて懇願しなければ世子実現は困難であろう。者頭をはじめ給人、小給は地約書を作り、それぞれ姓名と花押を自署し、政太郎の養子許可を幕府に請願し、もし許されなければ藩を挙げて江戸に上り哀願する決心であることを明記して家老に提出した。文久三年一月四日のことであった。同日不時便が再び到着した。政太郎が従五位下、右京亮に任ぜられたという報知であった。家老、奉行、大目付の評議の結果、この件の処理に者頭城勇維を当たらせることになった。城・財津六日、域勇雄は家老列座の席で、急いで江戸に上り、江戸に向かう政太郎の養子の一一件について幕府に折衝するように命ぜられた。城勇雄は次のように答えた。「不敏な身でこの大事を担当し、目的を達成できるか覚束ない。しかし、死生命に従うのは先日の請願書に盟約した通りであるから辞退せず命に従う。しかしこの事は極めて重大で一者頭に委任すべき事ではないのではないか。何故ならまだ君公の世子についての意向を知らない。今、藩論であるとして養子願を求めているのであるが、もし君公が許容されないなら説得せねばならない。者頭は武事を掌り輔弼諌議の任ではない。越権としてもし拒まれればいかんともし難い。また江戸詰めの諸臣と意の通ぜぬことがないとも限らぬ。諸臣の排斥に会わば帰国の外はない。さすれば家老か奉行の内からどなたか出向されそれに随行するのが適当であろう」と。すると隈江家281