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概要

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世第二節撰夷と兵制の改革近嘉永二年間四月四日、福嶋から急飛脚で異様な形の船の現れた報告が来た。本城の下千野の漁師甚太郎が去る二十九日鰹釣に沖へ出たところ、大帆柱三本でうち一本は倒しであったが帆数は二二枚である。甚太郎が逃げようとすると矢を射るごとく追いかけて来た。人影は五、六十人で羅紗様の物を着て二、三人ごとに一人は遠眼鏡を持ち、ほかの者は普通の眼鏡を掛け、うち二人は日本語をよく知っていて、風体や目っきは日本人のようであった。次のような問答をしたという。鯖鰹は無いか(無い)。この近くに石火矢(大砲)はあるか(ある)。船は着けられるか(着けられない。着けると長崎へ連行され難しくなる〉。昨日薩州開聞巌を見物した。これから土佐はどう行ったらよいか(東へ参るとよい)。字引は持たぬか、持っているものは何でも、交換しても銀銭ででも買い取りたい(何も持たない)。甚太郎との話はこのようであったという緊急報告であった(続実録、巻之二一〉。その四年後、嘉永六年(一八五三)ペリーが浦賀へ来黒船来るた。高鍋には、八月八日に、老中阿部伊勢守からとしてアメリカ船から幕府に渡した書翰と和解書の写二冊が送られて来た。ぞんじよりそして国家の一大事であるから、存寄(意見)あらば申し出よということであった。よって、者頭、軍学師範、頭取、学校御用掛など軍学を心がけている者へ意見を求め、幕府あて上書の下書きを明倫堂教授横尾仲治(敬)に命じた。翌年は回答の年であったが、幕府からは、異国船が諸国へ回り、横暴のふるまいがあるかも知れぬから、沿岸の防備を厳重また存寄があらば申し出るようにと通達して来た。落では前回同第4編都井岬に異国船現るにし、様、者頭以下に達し、奉行鈴木百助を海岸防御取調都合とし、者頭八人を掛として対処させることにした。278、水録免+五年ないし一O年の年賦で返済することとした。この年、アヘン戦争の記録を集録した「夷匪犯境問見録」六巻を明倫堂で出版しているのも、このような状況から関心が高かったためであろう。万延元年(一八六O〉桜田門外に井伊大老が討た嬢夷勤王となるれて、幕府の威権は急速に弱まってきた。文久二年参勤制が隔年から三年に緩められ、大名の家族も解放され帰国が許されるなど、幕府開設以来初めてのことであった。高鍋藩でもいち早く種肢夫人を連れ帰っている。様、者頭以下に達し、奉行鈴木百助を海岸防御取調都合とし、者頭八人を掛として対処させることにした。安政二年(一八五五)二月には都農心見海岸に長さ三O間メ(附のん)帆柱三つの唐船が漂着し、大騒ぎとなり、城志津馬、財津十太郎を正副警固使として長崎奉行に引き渡した。同三月には海岸防御の銃砲鋳造のたぽんしようめ、諸国の寺院の究鐘は古来の名器、時の鐘以外は提出せよという幕命であった(務史摘要〉。坂田稲太郎が当時長崎詰の勝海舟、下曽根次郎助について砲術修業したのは同三年'わしおである。翌四年には黒水鷲郎(長髄〉武藤東四郎が蚊口浜で西洋流の発砲練習を行い、諸士は近代兵器のゲベルやヤlゲル銃を所持しなくては役に立たないとし、銃の代銀七両二分を藩金から借り入れて共同購入し、