ブックタイトルac_cho_0007_takanabe
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た。安永九年(一七八O)の馳走役のときには、御用金一万両を準備し、正銀七五貫余は大坂屋敷から送り、そのほかは正銀二O貫目内外ずっ、蚊口浦と差〈々津からがんじような船に積み込んで送った記録がある(続実録、巻之四)。控役は、正役に支障が生じたらいつでも直ちに代役を勤める役であるから、正役同様万端の準備を整えておかねばならないのである。これらのことは種茂の人物を見ることもできるとともに、当時の藩の財政の状況を推測するのにも参考になる。第二節救農対策と福祉多子扶助と藩政充実期の高鍋農民の生活は苦しく、凶歳には最低生活すら維持でき双子の扶助ず、時に一撲を起こすことさえあったが、苦しい生活を少しでも緩和しようとして、家族の増加を抑制するために出生児を制限する「間引」が広く行われたことは人の知るところである。中井竹山そうぼうきげん著「草茅危言」に「日向あたり別して甚しく、その風、土太夫までも伝来」とあるのを「宮崎県の歴史」(日高次吉著)に引用してあるが、それは単に日向ばかりでなく、全国の各階層にわたっていたと思われる。明和四年(一七六七)には幕府が諸大名に悪習厳禁の通達を出しているし、水戸の医者瓦谷山人の「育子草」に絵図入りで水戸地方の風習として論難している。また、高鍋の親類筋に当たる米沢藩のごときも、この禁を犯す者は諸土は閉門、百姓町人は徒罪に処している(鷹山公偉蹟録)。種茂は、初めて封地高鍋に入ると間もなくこの悪習をやめさせるため、多子農民に扶助料支給を始めている。宝暦十一年(一七六一)十一月十五日此節より諸百姓子供三人目より御扶助として一日赤(米)二合づっ、第4章畠地物(麦〉は三合づっ、二品の内其の時の御吟味にて下さる段仰せ出さる(続実録、巻之一)。現代の児童手当である。「高鍋藩史話」はこのことは先進の欧州諸国(アメリカはまだ独立前)にも行なわれず、種茂は満十八歳を迎える十五日前の若さ(十一月三十日誕生〉を以て世界に先がけたのであった。宝暦十一年十一月十五日は、世界の児童手当記念日として永く記念すべきであろう。と種茂のこの決断を称賛している。種茂は、幕府の禁令より七年前に具体的な対策をとったのである。更にその翌年の宝麿十二年十月に公布した法令六条の中に次のごとく入れている。ゃから一万民生子を捨事弥以御制禁候。尤百姓子大勢生れ生育難ニ相成一族ハ一二人目ヨリ十歳迄之内相応之御扶持可被仰付旨、以前被仰付候得共、其以後願出候ものも無之、自今己後左様之もの在之候ハ、不捨置願出可申候。右之趣下々心得違無之候様、一現役之者兼テ得其意、御思旨無停滞一統相通候様可仕事。扶助料を支給したのは、水戸藩が寛政三年(一七九一)、米沢藩が同四年であるから、高鍋藩は三O年早かったわけである。(鷹山公偉蹟録、大内玉江著国制摘要)出生児の制限は人道上の悪習であるばかりでなく、農村の労働力の増加を図るうえからも禁止せられねばならなかった。更に四年後の明和二年(一七六五)には、手廻組の者が双子を遺棄すひっそくる事件があり、これを重く罰し逼塞に処することがあった。双子の生まれるのを思み嫌う風習があったのであろう。その機会に、双子出生は喜ぶべきことだとして貴賎にかかわらず申し出次第扶助料を支給すること227とした(続実録、巻之一)。明和四年四月には禁を犯して出生児を殺した