ブックタイトルac_cho_0007_takanabe
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世進気鋭の家老小田岡右衛門を任命して、倹約の徹底を期している。種茂の治世二八年間に、第国表のとおり、倹約令の出されること二一回、通算一四年が倹約年であった。種茂の実弟上杉鷹山が、後に米沢藩で行った倹約は、その十数年前に父種美、兄種茂が行った重要政策でもあった。種政・種弘の耕地面積の拡大、牧畜、換金作物の植栽などの財政の基礎sつくりの後を受け、種美・種茂・種徳もその事業を継承し、上記のごとく、耕地の拡大、産業の振興を図り、財政の充実に努めたので、その成果はめざましいものがあったと思われるのであるが、その実績を数量的に見る資料がない。それは前にも触れたとおり、他藩はもとより、幕府にも一藩の実体を見せないように細心の注意を払っていたからでもある。徳川幕府は、大名統御策として、諸大名が大きな経済力を持たないようにするため、絶えず監視し、財力を消耗させる方策をとった。参勤交替制もその一つであるが、そのほかに御手伝御用があった。大藩ほど負担が大きく、薩摩藩のごときは木曽川治水工事という大土木事業を行わせられている。高鍋藩のような小藩は、勅使参向の馳走役や、江戸外城門番、将軍一代に一度来朝する朝鮮使節の沿道接待などであったが、それでも財政的には大きな負担となった。したがって財政の実体を見せることは極力避けたのである。しかし、経済状況を推測し得るいくつかの事実がある。近第4編その一つは農業生産の増加である。種政から種徳まで五代の聞に行われた耕地拡大、農地保全事業の中の、大規模な事業を見ると、都仙の新設四九、修理・凌え九、井手の新設二ハ、修理四、川除・掘川二ハ、開田九、合計一O三の大型事業が行われている。種徳は文化四年(一八O七〉十二月に没し、その没後三八年の弘化元年(一八四回)に総石高の記録のあることをさきに述べたが(第一章第二節一六O頁参照てそれによると総石高は六万三、六三四石五斗九升で本高二万七、000石の二・三六倍である。しかも嘉永七年(一八五四U安政元)の幕府へ届け出の際には、新しい開発は「御座無く候」と、寛文四年三六六四)に開発地として届け出ていた一万て五OO石を加えて三万八、五OO石と報告している。また、安永四年(一七七五)に、大坂の商人から高鍋藩に借金を申し入れてきた事実がある。当時の大名は、相次ぐ災害による凶作、諸物価の高騰、消費生活の高度化によって内証苦しく富商に負債を持つものが多く、いわゆる領主の財政窮乏の時代といわれ、大名の内証は京都・大坂・江戸の三都の商人が握るかのごとくいわれた時代の出来事である。大坂の商人は天満屋彦四郎であった。(安永五年)(安、一氷六年〉御銭壱万貫文、来る申年拝借下され候はば、明後酉の春、御仕送り御返納仕るベし。と、屋敷抵当に願い出た。それで藩では、拝借と申し候ては世上風聞もいかがはしく候問、両替の名目にて、大金の儀に付、半高五千貫文相渡し、当暮来春までの問、金銀引替え皆納仰せ付けらる。(続実録、巻之四)更に、いわゆる御手伝御用のうち、参向勅使の接待役は、それぞれの治世中、種美・種徳は二回ずっ、種茂は正役控役とも七回も課せられ、朝鮮使節接待一回、呉服橋門・常盤橋門警衛六回、合計一四回も課せられている。種茂が初めて勅使接待役を勤めたのは、明和二年(一七六五)東照宮家康の百五十回忌が日光で行われたときで、徳川家にとっては最226も重大な儀式で、種茂は二三歳であった。勅使接待は通常、公家馳走役た〈みのかみといわれているが、赤穂藩の浅野内匠頭の殿中忍傷事件の例もあるように、気骨の折れる役目であったばかりでなく、経済的負担も大きかっ