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概要

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第4章いる。家督を相続した翌年の宝暦十一年(一七六一)、初めて封地高鍋にを諸役方に渡し、明和五年(一七六八)には倹約都合(担当長官)に新に至る七か年の倹約を実施した後を受け、種茂も徹底した倹約を行ってに軽くすべしと達した。同十三年には倹約実施状況を記録するよう帳面225藩政充実期の高鍋た。種美がその晩年、寛保三年(一七四三)から寛延三年(一七五O)目付に届け出でて同席を求め、萱切り、屋根の葺替えの賄いは身分相応各種産業の積極的な振興を図るとともに、消極的な倹約政策もとっは三献までに限り、座会の日時は、かやふき諸土は大目付へ、足軽以下庶民は村五倹約と財政母子やその他の座会の馳走は手軽くし、一汁二菜、湯漬けで済まし、酒ちそう年には、諸経費の三分の一減少を目標に節約するよう求め、士民には頼令〉まで制定していて、相当の規模のものであったと推定される。口津口入船について禁止品持ち込みの有無を厳重に検査させた。同十二は深江であったのであろう。塩浜はその掛役人の組織や、塩浜定目じよう巴もく(法酒類の他領からの買い入れを停止し、大塚覚右衛門以下六名に命じちょうじ、蚊「一氏江」は現在は「深川」と書いて「ふかご」と読んでいるが、本来一日「諸役方召呼び御倹約筋書付けを以て仰せ渡され」十四日、穀物、鴫野塩浜定目、御用掛へ相渡。(続実録、巻之七)する扶助料支給(児童手当)と倹約令の施行であった。すなわち十月十門、勘定所頭取村井郡左衛門、御用掛定詰内田仲太。十一月廿八日、入部して最初に行ったのは、城下町高鍋の市料の規制、農民の子供に対鴫野深ふかご江へ塩浜御取立。御手取被ニ仰付一。代官後藤計士口、福崎右衛政元年(一七八九)十月二日からである。話し口銭を取ったのである。高鍋近郷で大規模に製塩が行われたのは寛ここに出ている塩宿は、他領から塩田貝商人を宿泊させ、塩の売買を世(拾遺実録、巻之六)通り候。御定法は有v之候得共、当時不しまりニ付也。銀五厘ッ、可ニ申請一相極る。塩頭より判銭上納は古来より御定法之へ参候者肝煎売渡し、口銭士宮駄一一付銀壱分五厘。船積塩は壱俵一一付福嶋塩屋原へ弐軒、塩町へ壱軒。右両所ニ塩宿相立。他領より塩買享保元年(一七二ハ)十二月十二日町という塩取引の市場もできていた藩政充実期の倹約令発布状況。高鍋藩は海浜が多く製塩は早くから行われ、特に福嶋には塩屋原、塩藩主|西暦|年号1倹約令・その他6代ド7ヤ僻種美1743寛保3向こう7か年倹約令7代種茂第16表1761宝暦11倹約令1762グ12諸経費ま節約(目標〉1763グ13倹約帳面j度る1766明和3 {食約令四製塩1768グ5倹約都合発令(小田岡右衛門〉1769ノア6向こう3か年倹約令1772安永元倹約令1778 1 7倹約令1779グ8倹約令1782天明2倹約令1786 1 6倹約令1787 11守倹約令品[ 1作政4 [向こう3時約令(本藩,続本藩実録〉