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概要

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世00000坂炭代之内大坂仕出〆弐百四拾貫目金四千両。炭山は御手炭山ばかりでなく、歩一の炭山もあり、尾鈴山系の資源は大いに利用された。(続実録、巻之四)近明和八年(一七七一)六月十七日都農町類焼之者ヨリ野別府松ヶ花井椎孫山両所御定之歩一-一テ炭山願出七ヶ年御免。(続実録、巻之三)「高鍋藩史話」に「大坂の人たちが、日向人を「日向の炭焼」とあだ名するようになったのは、高鍋藩の木炭に由来するのではないかと思われる」と言っている。それほど木炭は藩の大きな財源であった。建設期以来植栽してきた櫨・格なども、この期に更に拡大され、種美の寛延元年(一七四八)二月、安養寺隠居の僧湛応が自己負担で櫨木四万本を植え付けて献納したことなどもあったが、この期になると大きな収入ともなってきた。櫨実から蝋製造を行う者がその製造と販売の特権を持つ櫨座を組織していたと思われるが、天保十年(一八三九)に落直営に切り替えられた記録がある。六月二十日。櫨座御取揚。当子年(天保十一年)より寅年(同十三年)迄三ヶ年御用捌御手絞被ニ仰付一、御用掛被ニ仰付一。預札を以正金引替被v成侯御主意ニテ也。(続実録、巻之十八)同十二年八月には福嶋院にも御用櫨座があり、蝋は請け絞りになっている。蝋の生産高の全体を知る資料は見当たらないが、次の記録によって利益率を知ることができる。第4編天保十三年五月四日銭四百三十四貫六百四十壱文、内百五十弐貫弐百弐拾弐文諸雑用也。差引テ弐百八十弐貫三百四十九文(二八二貫四一九文の誤り)御〈農)徳分。都の櫨実共。櫨実同壱万七百廿八貫九百十七匁。代銭千弐百廿士宮貫三百六十四文。右掛改之上、代銭櫨実絞方之者へ相渡由勘文差出。(続実録、巻之十九)りょう(決)この記事の内容は明瞭でないが、「都の櫨実共」で切ってみると、諸雑費を差し引いた製蝋益金が二八二貫三四九文(二八二貫四一九文の誤り)ということになり、利益率は六五%ということになる。後半は新たに買い付けた櫨実が一万七二八貫九一七匁で、代銭が一、一三二寅三六回文であったというのであるから、櫨実一貫は約八・八文に相当することになる。ともかく、六五%の利益率であったとすれば、ずいぶん有利な産業であったといわねばならない。格(船)は製紙原料として重要であった。宝暦十二年(一七六二)二月すき二十八日に、小丸上の西側のきん竹(ホウライチク)のある場所を紙漉屋敷に許可した記録があり、明和二年(一七六五)一月、水谷原の円福十'bE寺門外と水谷橋東側にも紙漉屋敷を許可した記録(続実録、巻之一)がある。そのころから製紙業が行われていたが、大部分は本圧和泉屋へ製紙原料として売られていた。文化四年(一八O七)十一月六日御領分中橋、本庄和泉屋へ売払候様被ニ仰付二橋壱貫目ニ付正銀弐分ッ、来年ヨリ三分ッ、差上(グル)積。(問、巻之十)しかし、天保七年(一八一三C二月十七日、是迄御手格並びに郷中緒、和泉屋称平次へ差遣さるる処、以来紙漉へ相渡し、手間代銭相払い、紙受取御払いの方御益ニ相成るに付、高鍋弁諸県共ニ御用掛仰付らる。(向、巻之十八〉とあり、原料として売るより、紙漉業者に紙を作らせ、手間賃を支払224ぃ、紙を売却したほうが利益であるので、そのように改めたのである。