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概要

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かで具体的であり、表現も異なっているが、内容となっている趣旨はほとんど変わっていない。庶民教育に大きな効果を挙げたに違いない。庶民教育はまた別な方面からも行われた。それは郷学郷学校校である。文久三年(一八六三)四月、坂田寿の献策により近代戦に備えるため兵制の改革を行い、従来の弓・槍などの諾組編成を廃し、すべて銃隊に改め、帯万する者および猟銃を持つ庶民はすべてこれに編入し、五隊八屯に編成した。「隊」は諸士、「屯」は屯田を意味し地域別に置いた。練兵場は随所に設け、隊長・屯長がそれぞれ訓練に当たった。椎木(木城町)屯長となった坂田稲太郎は、屯丘(の素質向上を図り農村の子弟を教育するため郷学校の設置を進言し、翌元治元年十一月椎木郷学校が設立せられ、郷学教諭に坂田鼎が任命され世近第4編?た。(郷学部)郷学校は右のとおり兵制の改革に伴って設立されたのであるが、明倫堂教授の進言により学校管轄となった。また各地から要望せられしだいに増加し、明治二年には美々津、都へだ農、平田(川南町)、小池(川南町)、福嶋の六郷学校が設けられた。更に後、三納代(新富町)(明治三年四月)、日置(同町〉(明治三年九月〉、諸県三名(国富町)(明治三年か)にも設けられた。ただし日置郷学校明倫堂紀録は三納代郷学校の分校のようなものであった。=一納代郷学校は初め宮ノ首蓮台寺に開設せられ、日置の万福寺辺からの子供には遠いため、万福寺を学校とし住僧津房潮を三納代郷学蒙養師に任命して教育させたのである(明倫堂記録、郷学部)。268郷学校には教諭一名、蒙養師二名、炊夫(番人)一名を配当し、課目は玉鉾百首、世道訓蒙頒、孝経、論語、大学、中庸で、習字などは行習斎に準じて指導された(美々津県史〉。そのほかの庶民教育は個人経営の家塾、寺子屋の類があった。これらを居宅以外に設ける場合は、諸士は大目付へ、それ以下は支配頭に届け出ることになっていた。自宅で行う場合はその必要はなかったが、他領人を寄留させる場合は伺い出てその指図を受けねばならなかった。都農赤木家は木陣であったが、西国の人を教師として、一族そのほかの教育をさせていた例である(赤木タマ談〉。第六節廃藩後の教育慶応三年十月、徳川慶喜が大政を奉還し、翌年九月八日、明治と改元したが、新しい政治の体制は整わず、廃藩置県となったのは明治四年七月であり、明治五年八月ようやく学制が発布されて学区の制定を見、宮崎県は第五大学区、高鍋は第二六番中学に属したが、まだ小学校の設立に至らず、明倫堂の教育は引き続き従来のまま続けられた。高鍋図書館所蔵の「明倫堂記録」の「学制部」には、明治五年変更の学修日取、授業次第、教諭心得、蓄の授業内容、授業実施法およびそのほかのことが同年十一月十日まで記録され、「置遊部」「雑事部」「郷学部」に同六年一月までの記事が見られる。「美々津県史」(高鍋図書館蔵〉所載の、明治五年三月四日調べにまた、