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概要

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るものは差し置かれる。植松でない見覚悟山は従来どおりであるが、人で数か所持っているか、広場の場合は調査検討のうえ決定する、というのである。ここに見られる「見覚倍山」も一穫の部分林である。次の例がある。明和元年(一七六四〉二月二十五日石河内前坂よりこふし横尾迄士宮里三合新規立山ニ相成ル。石河内村中浜口いもかはへ村中見覚悟成木之上十五歩一被ν下段被ニ仰出一。(続実録、巻之一)「覚悟」は「格護」とも書き、保護するの意である。見覚悟は見張り管理する意と解せられる。明治二十七年の宮崎県知事の「県務引継書」藩政充実期の高鍋高鍋藩ハ部分林見覚悟山ト云ヒ部分林ハ一般ニ栽培ヲ許シ成育ノ上其半額ヲ官収ス。尤モ栽付ノ際官民ノ区別ヲ明瞭ナラシム。見覚悟山ハ士民ニ区別ヲ定メ之ヲ保護セシメ下草枯枝等ハ見覚悟人自由ニ採収ス。此二山ハ官有ノ性質ヲ帯ブ。ぷいちゃまとある。歩一山(部分林)は五官五民、見覚悟山も前の文書にあるように、成木の上で一定の歩一が与えられたのである。歩一山の例は、文政十一年(一八二八)二月十九日に、二万四、四八O本を一万二、二四O本ずつ官民で分けている記録がある。(続実録、巻之十六)「御手山」は藩直営で伐採し売却することもあり、入札させる場合も、運上を取って伐出させる場合もあった。江戸大火の後、江戸に売り出させたのは種茂であった。安永元年(一七七二)第4章十月二十二日(上)つづみいずるはきわ江戸大火ニテ材木高直ニ付、御領分中古木山城田、鼓、出羽、木和だいもご〈つぷ〈るぞうざいちなわな飽き回、芋川(以上都農)杏袋、黒岩、蔵座、下り山、市納、名貫、おおいの〈ぽあまつけ大猪久保、甘付(以上川南)右入札買切代銀拾七貫弐百六拾目落(続実録、巻之一二〉札。御手山ヨリ落札之方御益ニ付御免。江戸の大火後の木材の値上がりに着眼しているのが種茂らしく興味深い。当時の運搬は海上を輸送したものであろう。翌年三月にも福嶋で六郎山など広い地域で多量に伐採している。運上を取って切り出させる場合は、例えば、寛政三年(一七九一)二月十九日、杉壱一肩一-一付銀弐匁七分之処、丸太肩に付銀四匁、向上木壱肩ニ付銀五匁五分ニ相改ル。(続実録、巻之七)コ屑」とは木材の容積の単位で、今は知る人が少なくなったが、一一屑は五寸角の一三尺二寸(二間物〉のことである。したがって一尺角の二間物は四肩で、一OO才ともいい、一一屑は二五才ということである(新富町坂本相次郎談〉。御手山すなわち藩営事業として木炭を製造し、遠く京大坂、江戸まで多量に移出し、藩庫を豊かにしていた。明和元年(一七六四)三月、奉行小田藤兵衛を御鹿倉山の木炭手取掛都合(長官〉に任命している。木炭が蚊口浦港から盛んに積み出されたことは次の記録によってもうかが〉えヲ匂。O蚊口の藤右衛門の持船、御用炭を二千俵積み出す。(明和六年二月〉O同武兵衛の持船、か御用炭三千俵積み出す。(向上)。(続実録、巻之二)京・大坂方面で多量に販売されていたことは次の記録によって知られる。安永八年(一七七九)三月、幕府から公家馳走役を命ぜられ、その御用金を江戸に送る際、大坂での炭売上金のうちから、銀二四貫目(約四OO両)も送っている。すなわち、。九日、右御用金銀弐百拾六貫目御朱印蔵より取出。同弐拾四貫目大223