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概要

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世ー「日本道学淵源録」など多くの著書がある。明倫堂建設を進言した千手八太郎廉斎の三子はいずれも優れた学者となった。長子泰太郎は明倫堂教授となり兵学教授を兼ねた。二男輿呆はその学問と言行は最も廉斎の風に近かったというが、父に先立って没し録近第4編た。三男輿成、字は叔、旭山と号した。京都に塾を聞き、門弟が極めて多かった。福井藩士、景岳橋本左内はその弟子である。その後、明倫堂教授となった者に田村克成(後総奉行)、横尾敬、そのみのるのぷぎね子横尾栗、域勇雄、森宣著、財津士口一、日高誠実などがある。たねよちようぞう政治的に活躍した人々に秋月種節(総奉行、家老)、黒水長憧(総奉行、家老〉、鈴木百助(総奉行、家老)、水筑弦太郎(勤王志士〉がある。また維新政府の徴土となった渡田芳、三好退蔵、岡本恭平や鈴木定直らがある。坂田芽は秋月種樹に先だって下局議長となり、三好退蔵は司法官となり、検事総長、大審院長となった。鈴木定直は大分県知事、滋賀県知事、警保局長となった。また戊辰の役の際、北越征討に功績のあった武藤東四郎、同隊長鈴木来助、副隊長福崎良一があり、そのほかオーストリア大使で後読売新聞社長となった秋月左都夫、宮崎農工銀行頭取堤長発、住友総理事鈴木馬左也、晩翠学舎・高鍋学校の創始者田村其淵、師範教育の泥谷良次郎らがある。更に、岡山孤児院、後に茶臼原孤児院の院長で孤児の父と仰がれる石井十次、歌誌山茶花を主宰した歌人安田尚義、連合艦隊司令長官小沢治三郎らも明倫堂の流れをくむ人と言ってよいであろう。第四節生活規範としての法令の制定262明倫堂開講から三年目の天明元年(一七八一)の八朔(八月一日)、城内大広間で諸士一統に、家老用人以下列座のもとで、大目付小田牧右衛門から法令制度の読み渡しを行った。「続実録」巻之五に「後年に至り右の段致し候様仰せ付けらる」とあり、「右の段」とは法令読み渡しのことであり毎年八朔の恒例となり幕末に及んだ。そのとき読み渡された法令の記録は伝えられていないが、「御法令、御制度、学校出席の義書写し、家々に所持し折々拝見」するように仰せ付けられたと記されているから、法令が成文化されていたと思われる。法令に関する記録は第四代種政の治世元禄七年(一六九四)七月六日に「公義(儀)御法度ハ申スニ及パズ、御家中御法度竪ク相守ルベキ事」と「拾遺実録、巻之二」に見えるほか、数か所に見られる。天明八年(一七八八)十一月、種茂が隠居して種徳自高鍋藩法令