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概要

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高鍋藩の教育かんせいハズ知ラス其陥隣一一陥リ、己ニ信太郎(横尾)ノ如キ頗ル学力アル者スラ近来ハ儒学ヲ信セズ、孔子ノ教モ当ニナラヌ、周易ハ無用ノ書ナド云フ見識ニテ体ナドニモサシテ督責モセズ、僅カニ老翁(仲治)ノ維持一一テ儀太郎(柄)モ廃学セザル体ナリ。来助氏ハ性質至テ聡明ナレドモ先入主トナリ大分洋癖アリ。華夷ノ弁ナドニ至リテゾハγヲハ頗ル議論モ異ナレリ。巳-一先日モ、有有-一湯武之心一何問ニ華夷一ナド云フ文章ヲ示サレタレバ愚意ヲ注シテ返シタリ。斯ク大本領ノ処、見識異ナルヤウナリユクモノナレバ畏ルベキコトナリ。取ニ彼ヲフガヲたとひルモトマかい長一、補ニ我短一ハ臣ガ持論ナル-一、奏(坂田)ハ縦為v盲、不ν読ニ蟹こうノヲ行書一(横蓄の書|洋書)ト云フ見識ニテ、常ニ議論合ハザレドつらつらモ、熟近来ノ形勢ヲ見ルニ、堂々タル儒者モ洋教-一流ル、体一一テ、彼ヲ奪ント欲シテ反テ彼一一魂塊ヲ奪ハルル景況。表ガ先見卓識さ感服セリ。然ナキダニ新ニ趨リ奇ヲ好ムハ人情ノ常ナル-一、参政以こうはんさじん上ノ者要路一一居リ、其道ヲ以テ煽動セパ闘藩左在一一流ル、コトハ一二十年ヲ出デズト。衛v正拒v邪ノ職ニ居ル臣ニ於テハ如何パカリ歎カハシカラン。且ツ洋学ノ誼奥ヲ究メ、閤藩ノ師範タラント欲セパ、畢生力ヲ其道ニ委ネザルベカラズ。来助ノ如キ、巳ニ参政ノ家ヲ嗣ゲバ、遅クトモ四十ニハ国政ヲ与リ聞カザルコトヲ得ズ。若シ洋学ヲ優一一セントスレパ治ν己治ν人ノ大道ヲ講究スル暇ハナカルベシ。つらつら臣熟考フルニ、洋学修業命ゼラレ、行々閤藩ノ師範一一モ任ゼラルベキハ、物頭・給人・小給一一終ル家格ノ子弟、学才アル者ヲ択バレ、学資ヲモ優ニ与へ、翻訳モ十分出来ルヤウニ修業サセ、行々ハ一藩横文難渋ノ書ヲ読ムヲ待タズ、其人-一就キ学ブコトヲ得シメ第5章パ、貴賎トモ随分一通講究スルコトヲ得ン。荷モ然ラズ、闘藩横文ヲ読マザレパ洋学修業ナラザランニハ、参政以上繁務ノ家一一生レテハ、儒学ヲ弁ルカ、洋学ヲ弁ルカ、是非偏廃セザレパ、世用ニ適スルハカリノ講究ハ知カルベシ。愚見ニテハ、是非ヨリ品シテモ、利害ヨリ論ジテモ右ノ如シ。然レドモ此国家ノ事、柳私意ヲ争フニ非ズ。尚博ク御下問アルベシ卜答議セシガ用ヰラレズ、来助一一洋学修業命ゼラレシニ、水筑弦太郎・三好充太郎(退蔵)建議シテ遂-一来助修業許サレタリ。と記している。洋学の認識が次のごとくであったことが知られる。-洋学は利害を基本とし、その説が新奇で魅力があるからその陥併に陥りやすい。2本領を誤ると見識が異なるようになるから、表の論のごとく洋学を遠ざけるは卓見と言うべきである。うんおうひっせい3洋学の誼奥を究むるには畢生その道に力をゆだねる者がなすべきで、来助のごとく藩政に参与する者はなすべきでない。城勇雄・坂田芳の考え方がうかがえると同時に、次の世代を担う水筑弦太郎・鈴木来助・三好退蔵の考え方の相違が見られる。洋学がふるわなかったことは高鍋の教育にとって遺憾なことであった。兵学は伝統的に越後流と長沼流の兵法が用いられてきたが、横尾粟・坂田葵らの建議により文久三年四月、兵備を改変し五隊八屯に編成し、まもふせ兵学も西洋流に転じた。しかし落校生徒は皆、正を衛り邪を拒ぐと称して従わず、洋服を着た者は校門に入るを禁ずるという風であった。同年九月九日総奉行黒水鷲郎が兵賦中都合となり訓練を熱心に行ったが、校徒の説も一理ありとし、改革に踏み切ることができなかった。たまたま慶応四年二月、三好退蔵は落命によって薩摩に使し、薩摩藩の練兵の状況を見て大いに悟るところがあった。薩摩藩の装備もさることながら、259練兵の進んでいることは驚くばかりで、高鍋藩の旧説墨守は近代戦に全