ブックタイトルac_cho_0007_takanabe
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世を完成したのが安永三年(一七七四〉であるから、それから二五年後のことである。これに類する研究の記事は「続々実録、巻之十」の慶応元年(一八六五)七月十九日にも見られる。高鍋で種痘の初めて行われたのは嘉永三年(一八五O)五月二十九日、医師山田容庵・荒川環の両名が川北郷のうちで種痘を願い出て許可されたことが、「続実録、巻之一一一」に記録せられている。しかし、同近第4編十月二十二日、山田容庵荒川環より種痘磨願出御免の処、再痘も在之候付、種痘御差留に相成る。種痘旅医御領へ入込候ハ、立退候様被ニ仰出一。(続実録、巻之二一)「再痘」とは種痘しても再び感染したというのであり、「種痘旅医」は種痘をなりわいとする医師がいたのであろう。種痘が再開されたのは安政二年(一八五五)六月二十二日である。安政五年九月にはコロヲ病、すなわちコレラの大流行で死亡者が多いため、藩では治療法研究のため、他国へ医師を派遣している(続々実録、巻之三)。国学は、藩主種肢が大坂の人、名波大年を明治二年四月招軟し、九月高鍋に到着、同三年四月明倫堂教授に任じてから指導せられることになえいった。大年は初め豊浦筑前介といい、南朝の臣伯番守長年の末商といぅ。白河家神道を修め国学を精究し和歌に長じていた。行習斎に国学科を設け、ようやく盛んになろうとしたが、明治四年二月辞して故郷に帰り、次いで廃藩となったため、充実するに至らなかった。惜しいことである。洋学と兵学洋学と兵学は兵賦局において行った。しかし、洋学は高鍋においてはほとんど見るべきものがなかった。国学が充実しなかったこととともに惜しむべきことである。洋学のふるわなかったのは、「文武取調書」「竹窓年諮問」を見ると、指導層の偏見によるものと思われる。はぐさ落論等援ヲ以テ主義トシ、清原真弓(岡本恭平〉、城勇雄・坂田奏みだあずか等最モ蛮夷夏ヲ狩ルヲ悪ム者相次ギテ藩政ヲ与リ聞キ、騎士以上ノ子弟ヲシテ(洋学ヲ)学パシメズ、之ヲ兵賦局-一属シ、寄宿生ヲ置キ兵書ヲ講ゼシムルノミ。旧藩洋学ノ振ハザル、職トシテ是-一白レ。258(文武取調室出)清原真弓、元の名は岡本恭平は慶応二年家老となり、城勇雄は明倫堂教授を経て慶応四年家老、坂田芽は物頭・大渡留守居となり、五隊八屯の新兵制を立てた人である。これら気鋭の指導者が洋学を阻止し、わずかに兵書を学ぶためだけにとどめたというのである。城勇雄著の「竹窓年譜」に次の記述がある。少し長いが高鍋の教育史上重要なことなので引用する。元治元年、城勇雄は前年の文久三年(一八六一二)の八月十九日に横尾敬に代わって明倫堂教授に就任したばかりである。わしお七月兵賦中都合黒水鷲郎氏ヨリ鈴木来助ニ洋学修行命ゼラル、可否下問アリ。貴賎ニ限ラズ戦守ノ講究ハ今日ノ切務ナリト雄モ、世降リ風移リ、人心日々利-一趨ル折柄、洋教ノ襲来利害ヨリ議論ヲ立(畢)テ、何事モ必寛利ノ一字-一帰シ、今日ノ人情ニハ渡リニ舟ナレパ、しんしん早ク其源ヲ塞ガザレパ騒々トシテ彼ノ穴-一陥リ、其害、楊墨仏老ノ比ニ非ズ。仏老ノ如キハ欲ヲ絶チ情ヲ忍ビ有モ難キコトヲ勤ムルコト故、生質剛毅ノ者ニ非ザレパ容易-一学ビ難ケレドモ、洋教ハ何事(モ)我ガ便利ヲ図リ、且其説モ新奇ナルヲ以テ学者モ面白ク、閉山