ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

ac_cho_0007_takanabe

世た。その年は市ノ山牧では二三頭の母駄が残らず子を産み、一挙に倍増したので、牧神に酒を供えて祭った。しかし三O年後の寛政元年(一七八九)八月二十四日廃止されている。続実録巻之七によると、冬の飼料が少なく、そのうえに牧場内が禁猟区のため、猪や鹿が多く住みついて付近の農作物を荒らして農民が迷惑し、子馬の出生も少ないので、馬はすべて都農の岩山牧に移し、牧場のうちの牧神山、古並(小並)、新山以外は開墾して畠にすることになった。牧部当(責任者)の日高嘉兵衛と税田久助の両人には、足軽の給与のほか開墾地二反ずつ、他の六人の牧番にもそれぞれ開墾地を支給し山留や山小留の役に用いられた。安永六年(一七七七)には、福嶋松ヶ崎、権代、池ヶ尾の各牧場に母駄が少ないので里馬一四頭を買い入れて放牧し、寛政二年(一七九O)には薩摩馬を買い入れ、都農岩山牧に放牧した。近第4編林業小丸川流域特に尾鈴山系や、福嶋などに山林が多く、山林資源は高鍋藩にとって農産物に次ぐ重要なものであった。元禄四年三六九一)の記録に、大坂での米・木材の売り払いの報告に関することが見えるから、早くから大坂方面に売り出されていたものであろう。しかし山林についての記録の多く見られるのは、六代種美、七代種茂のころからである。寛保二年(一七四二)七月、指杉その他の仕立物の官民分収三箇条が定められた。指杉場所の山留へ断り、指杉高さ三尺に相成り候節、山帳に記ぷいちし、一尺五寸廻りに相成り候節、歩一下され候事。見掛畠に漆・梶(格)・綜・茶・櫨仕立て候は、半分下され候事222定銀畠への仕立物は惣て下され候事。(本落笑録、巻之七)山林には、落直営の「御手山」と、「歩一山」(部分林)と、「見覚こやま悟山」とがあった。七代種茂は、宝麿十二年(一七六二)五月二十七日(ニカ)植松ハ五歩一、植候者へ。但十本ニ付五本。立山ハ三歩て仕立候者へ。但壱町ニ付三反方。火防場所在v之立山ハ火防場所長十間ニ付仕立木十本。右歩一被下候相極ル。ハ続実録、巻之一〉更に十代種肢の慶応三年(一八六七〉六月十日次のとおり定めた。植松山願出候節左之通り御免之事。ぶいち一弐町ヲ限リ御免之事。但此内ニ歩一被v下候事。一右町数ニ相成丈ハ数ヶ所一一テモ御免之事。但是迄御免被v置候分そ取加之事。一壱ケ所ニテ右町数ヨリ広キ場所在ν之侯共、並之見覚悟山ニモ不三相ニ成御免二余人へ被v成ニ御免一候事。但是迄御免被ν置候分ハ其億被ニ差置一候。すべ一植松ニテ無v之見覚悟山ハ、都テ是迄之通ニテ候得共、壱人ニテ数ヶ所所持ヵ、又ハ広場等願出候節、御吟味在v之候儀ハ勿論之事。右之通御治定被v置候。(続々実録、巻之十二)これは、植松山は一人二町歩を限り許可することを定めたのである。二町になるまでは数か所でもかまわない。一か所で二町以上の広い場所で見覚悟山になっていない所は許可される。この場合従前許可されてい