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概要

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巻之二二)。寄宿生は初めは、藩費生三名、志願生六名と定め著察斎学生から採用した。最初の藩費生は、内野虎太郎・甲斐虎次郎・日高誠実の三名であった。しかし間もなく志望者が増加したので入寮定員を五O人とし、家禄百石以上の子弟は自費、百石未満は半額藩費補助、五O石未満は全額藩費と定めた。寮生は丸一か年とし、病気、看病、忌引のほか自宅に帰ることはできない。しかし外出は一か月五度許され、うち三度は門限夜十二時、二度ついたちは自宅に泊ってもよい。元日、中元、五節句、朔日は右の五度のうちには入らない。寮生は昼間は著察斎に出席して学ぶ。毎日経書は三枚以上、子・史・集(諸子、歴史書、詩文集)は二O枚以上を熟読することであった。夜の学習は春夏は十時限り、秋冬は十二時まで。その時刻以前に休んだり、その時刻過ぎまで読書する場合は寮長の許可を受けなければならない。かたぎぬ四季試験のうち二度は必ず受験する。試験には肩衣を着用する。毎月六回の会読には必ず出席。毎月十五日の文会、二十八日の詩会にも必ず出席。長病以外で当日出席できなかった者は、三日以内に詩文を提出しなければならない。酒は一切禁止。入浴は秩冬は一か月六度、春夏は掛湯一日おき(寮法板額高鍋図書館蔵)。これが寮法である。昼夜学問に専心し、学友と会読し、詩会、文会で高鍋藩の教育あるいは議論を闘わし、優劣を競い、切瑳琢磨するのであるから、学力の進歩は顕著であった。後の指導者となった人々は皆、切偲楼の出身者である。第5章医学と国学医学については既に述べたとおり、種弘の設けた稽古所において享保十三年(一七二八)山田玄随が医書を講じ、種美治世の宝暦七年(一七五七)にも浜崎道伯が医書を講じたことがあった。藩の旧例では、医家の子弟は、江戸・京都・大坂の三都に五か年遊学しなければ医者という家業を継ぐことを許されず、その聞の扶持は藩から支給されることになっていた(続実録、巻之十七)。そのため父兄はおのおの、その信頼する老医の家に子弟を寄宿させて教えを受けさせていた。天保十五年(一八四回、弘化元)八月、稽古所の庭の西のほうに医学館を建設して医師教育を始め、同年十月、医学研修の規則を作成し、山田容庵・平嶋保節・荒川環を医学研修の掛に任命した。しかし、嘉永四年(一八五一)大風のため医学館が大破し、出席者も少ないため一時閉鎖した。翌五年学校の三聞を修復し、二月から師範を置き医書会読を始め、隠居まで月六度出席することとした(続実録、巻之二二)。しかし病家の治療のため暇がなく、間もなく廃し元のように各師家に寄宿することになった。明治三年新校舎造営後は寄宿寮と同棟に医学部を設けた(明倫堂記録〉。「文武取調室田」によると医家は「その法(法か)は古疾医家、後世家あり、蘭方あり、雑法家あり、その科は内科あり、外科あり、産科あり、眼科あり、日中科(歯科)あり。」と記されている。医学の研究については、寛政十一年(一七九九)に人体の解剖研究の記録がある。四月十日、福嶋大順方ヨリ此節屍相求為ニ修行一解体仕候。屍代惣金六両三分相掛リ拾人ニテ仕リ候付、士宮人前出金弐分弐朱之処、何分不ν及ニ自力一候一一付、右出金方被ニ成下一候様願出候処、吟味之上兼テ外科稽古被ニ仰付置一候付、願之通被-歳下一候。(旧記抜書、巻二)しかぽねすなわち、解体研究用の屍を入手する費用が研究者一O人で負担すると、一人二分二朱となり、負担困難であるから、落費で支出して欲し257いと願い出て許可された、という内容である。杉田玄白が「解体新書」