ブックタイトルac_cho_0007_takanabe
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世また例外ではなかった。高鍋藩の儒学者たちも、従来の山崎学派の朱子学だけでは満たされなくなり、当時声望の高かった古賀佃庵、その子、古賀謹一郎の門に学ぶ者が多くなった。どうあん古賀伺庵(一七八八1一八四七)は佐賀出身で、寛政の三博士の一人古賀精里の三男、名は虚字は季嘩といい、漢学と蘭学に通じ視野の広い進歩主義者で、文化六年幕府の儒官となった。伺庵の門に学んだ高鍋藩みのるきんいもの人には、横尾敬・横尾栗・財津士口一・日高明実らがある。古賀謹一ろう郎(一八二ハ1一八八四)は幕末から明治にかけての儒者で洋学者。名まさるうは増、字は如川、茶渓また謹堂と号した。父伺庵の後を承け幕府の儒官となり、のち洋学所一頭取となった。茶渓に学んだ人に、城勇雄、日高のぷざね誠実、森宣著があり、いずれも明倫堂教授となった。あきざねかつて折衷学派に学んだ人が教授になったことがある。日高明実であせきぷねる。父祖は皆藩主の関船の船長であるが、明実は学を好み、豊後日田のりょうしφう淡窓広瀬求馬の威宜園に学び、平野五岳、水筑橘門とその領袖であった。淡窓は折衷学派であった。藩主種任はその名を聞きこれを召そうとし、その処遇を明倫堂教授に聞いた。教授は、学問上達のうえ諸家の長所を選み取るのはよいが、初めから折衷を学ぶのはよろしいとは言えない、当方にて一、二年励み(闇斎学を)更に二、三年遊学して朱子学を修めさせるべきであると進言した。その進言に従って現実は古賀伺庵について正し、天保十三年明倫堂助教、同十四年教授となっている。明倫近第4編堂の折衷学派に対する評価を見ることができる。学風が変わると同時に、儒学ばかりでなく、国学、医学、洋学、近代兵学が取り入れられねばならなくなり、教育上大きな効果のある寄宿寮も開設せられた。また生徒も増加し校舎も狭くなったので、改築が必要となり、明倫堂の大改革が必要となった。最も早く手のつけられたのは寄宿寮の設立であった。11弘化四年(一八四七)十一月二十三日、教授横尾仲治午孔回心米世{ーは寄宿寮の設立を要望した。それは、俗事を離れて日さんせっさた〈ま夜学問の研鏡に専念し、朋友相互の切薩琢磨により、高い教養と高潔な品性を養う英才教育の環境としての要望であった。嘉永元年寄宿生三人が許されたので学校の座敷を仕切って宿舎代わりとし、翌二年六月二十四日、その費用の支給、寄宿寮の設置などを願い出たがまだ認められなかった(明倫堂記録)。惣奉行鈴木百助もその必要を認めたが、ほかの要路者の同意を得るに至らなかった。嘉永五年藩主種肢に従って江戸に出256た百助は、遊学中の城勇雄・森仲太(宣著〉を呼び、江戸における学事の状況を問うた。二人は、列藩の(高鍋図書館蔵〉寄宿寮が教育上極めてよい成果を挙げていることを報告した。百助は二人に、寄宿寮設置の必要を建議するよう勧め、二人はこれに従った。当時江戸藩邸には執政にあずかる者はわずか三人にすぎず、百助はつとめて賛切{思楼寮法成し、藩主はその議を入れて設置を命じた。学校の要望と百助の願はようやく実現する運びとなった(城竹窓年譜)。翌六年九月、寄宿寮切偲楼が建設され、助教山内純亮と横尾信太郎が寄宿寮掛に任命せられた(続実録、