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概要

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かは希望に任せた(文武取調書)。廃藩の年である明治四年の記録によると、遊学者定員は更に増加して二O人であったが、学校料出納に窮するという理由で一六人に減じ、同年二月十七日に次のとおり上申している。一、百七十三石八斗但遊学生十六人、一人前六人扶持、一ヶ年日数三百六十日之積、尤遊学生東京計ニテモ無之、西京、或摂坂及中国筋、九州筋江遊学之者モ有之候得共、先東京計之積高ニ御坐候問、其時々東京外(為替)之遊学生之分ハ相除、東京遊学生計替セ奉願候(明倫堂記録、官遊部)一か年三六O日(太陰暦)として一人前六人扶持(一O石八斗)遊学生一六人分、東京以外の遊学生もあるだろうが、東京ばかりの計算で為替にして欲しいというのである。小藩の高鍋藩が年間一六人を遠く東京外各地に遊学させるということは、たいそう多いとはいえないが、当時としては教育に相当の重点を置いていた結果と評価してよいであろう。高鍋藩の教育十九日、明倫堂創立当時の学校経費は二O人扶持約三六石であったが、嘉永六年に寄宿寮を設置したため、同年十月一四人扶持二五石余を増加した。その後、生徒数も増加し、物学校経費価も騰貴し、更に後述のとおり郷学を設けたため、明治二年十月十五日、草高一、五OO石(三ツ五分廃米約五二五石)となった。学校の諸費用はもちろん、遊学、寄宿寮、郷学の諸費までこれから支出され、別第5章に土民から徴収することはなかった。しかし武芸と洋学に関する費用は別に兵賦用費から支出された。兵賦用費は藩費から二、000両給せられていたが、慶応三年三八六七)九月十五日、米七二O石となった(続々実録、巻之十二)。更に兵賦局を造営してからは、学校に準じ、明治二年十月には草高一二、五OO石(三ツ五分康米約一、二二五石〉を給することになった(務尾録、巻之一)。職文武都合(初め、稽古大都合)文武中都合(初め、稽古仲都合)奉行人家老人員初め、用人一人文武改役(初め、稽古改役)者頭騎士初め、者一頭一人改役は毎日輪番で一人ずつ出校し、諸芸の師範・頭取・生徒の出否を記録し、勤惰を監督し、三か月ごとに出否帳を作成して中都合に提出し、都合を経て藩主に報告する。諸道具の支給、営繕は皆改役が行う。士卒の子弟が初めて勤務に就き、または家督を継ぐ際は、文武の勤惰について改役の証言がなければならない。右の三職は家禄のほかに役料は付かないのが原則であるが、家老で二百石未満、奉行百二十石以下、物頭で六十石未満の者には職俸がある。人人明倫堂教授(後、漢籍国学各一人)二人初め師範と称し、創立のときは三人であったが二人に改められ、寛政五年十月師範を教授に、頭取を助教と改めた。騎士以上の任とせきがくばってきしたが、騎士以下で碩学の人は生涯準騎士に抜擢してこれに任じた。毎日輪番に出校し学事を総理し、生徒を指導した。うち一人は必ず御書院講師を兼ね、毎月二回、正庁において経伝中、経済に切253要な編章を抄講した。藩主は席を下り教授と対座して聴聞した。家