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概要

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世寮に入寮した例である。福嶋今町水主助治、文学心掛彼方郷学校へ出席、孝経・小学試業も相済候につき府学試(明倫堂試験〉申受け度き趣をもってここ許へ(莱〉差越し、横尾潜蔵方へまかり在り候由。元来貧生故、万端引請呉候様彼方教諭師村田信敬方より頼越し、明倫堂寄宿生末席へ相加え候儀相かない候はば、此上なき願望の趣につき、学校へも吟味の上、学校料の内より御まかない下され、ここもと寄宿命ぜられ候。(藩尾録、巻之二)近第4編せがれこのほか、文政十三年一月、職人富岡勘平の体勘助、天保十二年十月、福嶋北方庄屋の体山内増吉、嘉、永二年十二月、職人の三男岩下久太郎、明治三年一月十五日、細工人の惇竜原瀬一、美々津の水主近藤昇七、そのほか多くの俊才たちが入学している(明倫堂記録)。また、他藩からの委託入学生もあった。明治二年九月、筑前秋月から、明治三年九月、佐土原藩の山田安宅から田原雄太郎・中尾伊左美の両名を、同十二月、佐伯藩から矢野湛を頼まれたごときである(明倫堂記録)。成績の特に優秀な者は藩費を支給して江戸または京坂地方に遊学させた。既に六代藩主種美のときに遊学の道を聞いて闇斎門に多くの俊秀を学ばせた。種茂のときにも、学校造立が決定すると建設にさきがけて、後年の師範養成のために、師範そのほか教育関係者一同の推薦によって、大塚太一郎観欄を京都の宇井黙斎の門に遊学させている。その後も藩費によって遊学させたが、しだいに制度化され、嘉、氷四年(一八五一)七月には願い出て遊学する者は二名ず遊学制度つ丸二か年に限り扶持を支給することにしたが、同年九月更に次のように改めた。-落命によって遊学する者は二名ずつ丸二か年。四人扶持支給。2願い出て遊学する者は半分の二人扶持とし、そのうちの半高は藩費、半高は学校費から支給する。3旅費・諸雑費は右の扶持の割にて四か月分を支給し、閏月の費用は別勘定とする。4自費遊学は勤務に支障のない限り人数の制限はしない(続出夫録、巻之二十一)。252嘉永六年(一八五一ニ)十月には、物価騰貴のため、学校料を二O人扶持では不足につき一四人扶持を増額し、遊学生の学費の支給は、-藩命による者は月額三歩二朱。2自費遊学の者は月額一歩三朱(問、二十二巻)。更に文久元年(一八六一〉三月には、-落命による者は月額一両(年一二両〉。2自費遊学の者は月額二分(年六両)。3柳川藩に武芸修行の者は年額八両。4遊学生のうち、定員外抜群の者は特別として学校料からでなく別に藩から支給する(一二好退蔵がこの扱いを受けている)。(明倫堂記録×続々実録、巻之六)。慶応元年(一八六五〉十二月、-遊学者の身分が家禄百五十石以上である場合は、藩命による者も自費となる。ただし、入門、退塾、二季勤金(盆・暮れの謝礼)は学校料から支給する。その後、生徒数も多く、遊学希望の者も増加のため、皇学生六人、漢学生六人、医学生四人、礼律学生一人、算学生一人、書画学生一人、合計一九人を遊学者定員とし、学費は一人現米一O石とし、代金支給か否