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概要

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e・5ず9書籍筆硯を乱さず、書籍、衣装箱ともしっかり閉じておく。堂室必ず潔浄毎日早朝箸き、机に雑巾をかけて清浄にする。相呼ぶに必ず歯を以てす二倍以上年長者は父に準じて呼び、十歳長ずる者は兄に準じ、同年たりとも「おれし「お前」と呼んではならぬ。業を修むる余功有り、遊芸、適性有り祭犯の事、射御の法、算数の術、各その法がある。かけごとや品の悪いことをしてはならない。戸、、幼者を待つに慈を以てし、長者に事うるに悌を以てす朋友に対しては柏下り敬を主とせよ。幼者をいつくしみ、長老を尊重せよ。義理を討論し、善を責め過を正す場合は互いに隠忍してはならない。高きに登るは低きよりし、遠きに行くは近きよりするは教の順序である。この学規は威儀容貌の小節のみを述べているが、小を尽さねば大に進まない。この学規を守りその極にいたれば聖賢に至る。諸生よろしく骨に刻むべきでみのる。安永戊成孟春の日師範中第二節明倫堂の組織高鍋藩の教育明倫堂は小学と大学とに分かれ、小学を初め行習館、大学を著察館といった(明倫堂楯間記)が、後「行習斎」「著察斎」に改めた。所在地は廉の屋敷といわれたところで、大手門から西に通ずる道が、大楠の下を南北に走る道と接したところの南東の廉の屋敷がそれである。現在地では、高鍋農業高等学校の運動場の西北隅に当たる。大字南高鍋字旧域内二、一九八番地の七で「明学校名と所在地第5章倫堂祉」の石碑の南下の運動場である。続実録、巻之四には「学校南北長屋東面」と記しているから、南北に伸びた長屋で東を正面とした校舎である。天保十五年(一八四四、弘化元年〉八月には、西側には医学館が建てられ、嘉永六年(一八五三)には寄宿寮切偲楼が建てられた。更に明治三年(一八七O)四月には、隣接する北側の敷地に移転改築されたのである(藩尾録、巻之二)。初め小給以上の格式の嫡男は八、九歳で行習斎に入学しつけし、素読・手習(書道)・族方などを修練し、中小姓・徒士の身分の嫡男はなるだけ出席すべきことであった。また文武の修練に志のある者は二男三男でも希望により稽古(修練〉に参加してよいことになっていた(諸士制度上〉。初めは二男三男は、稽古改め(試験〉は必須ではなかったが、安政四年七月から、全員の就学となり、改めも必ず受けねばならなくなり、更に就学が仕籍に入る条件となったので、二男以下も十一歳までに必ず入学しなければならないことになった(続々実録、巻之八)。イ寸習斎入学を望む者はまず父兄の許しを受け、礼服を着けて教授助教の自宅に行って願い出る。許されると麻上下を着用して出席する。ただし幼年の者は父兄同伴で願い出る。毎日早朝洗面の後、衣服を改め、かねて頼み置いた近所の師家に行って素読を受ける。これを「朝読み」といった。九時始業である。座席は身分や入学の時期に関係なく生年月日順であった。教授・助教や諸礼の先生の出席を待って一礼し学習を始める。素読は朝読みの師に授かったところやかねて読んだところなど一宇一そら句気をつけて繰り返す。文字を見定めず空読みをしてはならない。手習245は読み方筆法に心をつけ、一、六の日には清書を持参する。議警はこれを