ブックタイトルac_cho_0007_takanabe
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世第四章藩政充実期の高鍋近第4編第一節財政基礎の充実諸制度の整備、政治経済の基礎が固められた後を受けて、これを充実させたのが、六代種美、七代種茂、八代種徳であった。農地の拡大建設期のところで見てきたとおり、藩の財政は農業およびそれに付随する牧畜、林業、特に農業生産に大きな影響を受ける。藩政の重点も当然そこに向けられる。種美は領内の年貢に絶えず注意を払った。例えば従来麦年貢上帳は藩主に報告せず家老が検閲してそのまま家老所に置いたのであったが、種美はこれを報告させたばかりでなく、今後何品によらず年貢上帳は、藩主が直接親聞の後に下げ渡すこととし、藩主が江戸在勤のときも同様にするよう改めたごときである(拾遺実録、巻之十)。種政、種弘が積極的に取り組んで来た農地拡大事業は、歴代の藩主がこれを受け継いでいったが、最も多く大規模にそのための大土木事業を行ったのは種茂であった。この時期の土木事業のうちの大規模なものを見ると、次のとおりである。()内はその中の種茂の事業数。溜池新設一七ハ一四)修理六三ハ)水路新設一O(五)修理一(一)川除・掘川六(五)開田二合計四二三二)220右のうち、高鍋地域の溜池(堤〉を挙げると、しげはざま太平寺重間堤(明和七年、一七七O)持田槍谷堤(天明七年、一七八七)日置金竜庵上堤(向上)上江郷老瀬堤(向上着工〉椎木郷寺山堤(向上着工)(老瀬・寺山堤完成は寛政元年(一七八九)三月)三納代宮首堤(向上)上江郷湯田堤(天明八年一七八八)持田郷蛸ノ口堤修復(向上〉高城郷岸立新井手(明和七年一七七O〉比木掘貫井手(天明二年一七八二〉(後に、広谷用水といわれるもので椎木郷比木の岩盤を掘り貫いて、椎木・上江・高鍋三郷の低地を水田にしようと、明暦三年(一六五七)に着工したが完成せず、これが二回目の着工である。しかし、このときも完成しなかった。安蔵川除(安永三年、一七七四)(人足一万一、000人の大工事であったが、翌年大風雨洪水で125 4 37 6810 911大破)13 12(安永四年、一七七五)安蔵川除安蔵掘川関目新設(向上)貯水池ができて井手が作られ、荒地が開墾され、畠地に水が引かれて水田となり、荒野が美田に変わっていく様が想像される。開墾の記録は高鍋地域では見当たらないが、次のような例がある。