ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

ac_cho_0007_takanabe

しんし八太郎の、藩の政治のためには経学こそ必要であるという真撃な進言に動かされて宋学に移り、内藤元土口、財津十郎兵衛、田村織右衛門らに経学を、田村五郎治、馬渡新助らに兵学を稽古所で講義させた。また明和二年(一七六五)八月、稽古所の実績の挙がらないのを憂え、次のとおり改革した。おめみえけいこあらためや〈藩臣が元服し御目見を願い出た際、大目付は、稽古改役に本人の稽古所での成績の優劣、出席状況を報告させ、時に賞罰を加え、場合によっては御目見を差し控えさせる。家督相続によって御番入り(勤務)を願い出た場合、いちおう御番入りは許すが、稽古の状況により処遇する。藩主の在城中に必ず二度武芸上覧を行う。一か月に一度大目付以上列席のうえ、稽古改めを行う。正月二十五日諸武芸、二月二十五日軍書と諸武芸、三月十六日馬術、支障があれば二十六日。右の繰り合わせで一か月一度ずつ稽古改めを行う。(要旨)(続実録、巻之一)高鍋藩の教育大層厳格な改革であった。稽古所で各種の武芸のほか、軍書、故実、経書の講書も行われ、経書の講義は千手八太郎が担当していた。しかしじゅうぶんな効果を挙げることができなかった。当時、廉の屋敷の一部には米蔵があり、蔵の聞かれる日は、人馬の出入りが多くて騒がしいうえに、武芸練習のための騒がしさもあるところから、人材養成という重大な事業のため、専用の施設、すなわち学校が必要であった。学校造立の存寄第5章安永四年に財津十郎兵衛、内藤進の両人から学校建設についての進言があったが、近年打ち続く災害のため見合わせていたところ、同六年六月十八日、千手八太郎から学校建設について次のような進言があった。おそれながら乍恐存寄の儀申上候。私儀、廉の屋敷稽古所にて御家中諸生の為に経書講談仕り候ょう仰せ付けられ、無調法ながら畏まり奉りおかみ候。然る処是まで段々御上より厚く御世話遊ばされ、毎度講談これ有り候へども、如何の訳に御座候や、出席の徒少く、格別出精の徒ろうしようどうも稀なる様子に御座候へば、別して私如き浅胆の学者信導仕り候ては、益々以て衰微に相成り申すべきと、至って恐入存じ奉り候。併し、仰付られ候儀一先づ出精仕り、生徒も相増し出精の人もこれ有り候ょう見申し候て、其の上相変る儀も御座なく候はば、其の節ぞんじより辞退申上くべしと、兎や角思慮仕り侯て左の通り存寄申上候。一経学の儀は事物の道理を講求仕り、心身性情を正しく養ひ立て候義故、深沈に御座無く候ては学業成立申さず候儀故、其の学びの場所も閑静の所を選び候儀に御座候処、廉の屋敷御長屋は端近にて、往来に立ち臨み騒がしき場所にて、御蔵日等は人馬多く入込み別して騒がしく、且つ諸稽古打込みの稽古所故、講書中にも外稽古はなしかたがたの徒相集り居り、哨等これ有り、芳諸生の心安静ならず候故、その心義理に移り申さず、幼年の輩は別して心散り易く、殊に後諸稽ただただ古の妨にも相成り申すベくやと、講後に緩んベ講求も仕り難く、唯々一座出席帳面に付け候ばかりの様に相成り、何ぞ益に相成り候様子相見え申さず候。左様御座候ては、御上より厚く御世話遊ばされ候思召に相叶ひ申すまじく存じ奉り候問、伺卒、廉の屋敷奥深き所へまか引込み、新たに学校御造立なされ、昼夜共に何時にても勝手次第罷り出で、終日も緩々落着き講求仕り候ょう仰せ付けられ候はば、御家中年若の者は勿論、中年以上の者も、遠慮なく出席講求仕り侯ょう御座あるべく存じ奉り候。237