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概要

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世第五章高鍋藩の教育近第H肩第一節明倫堂の創立とその教育稽古所の設置文教の機運の動き始めたのは四代種政のときからであった。三代種信しようへいは越後流の兵法学者佐久間頼母を招聴したが、頼母は約一O年で江戸へ帰ってしまった。儒学の始まったのは四代種政が福嶋の処士山内仙介貞良を召し、経学を講ぜしめたときからである。仙介は種政、種弘、種美三代に仕え藩学の祖といわれる。種政はまた参勤の途中、京都で内藤(九〉久右衛門の教えを聴いた。久右衛門は、京都の富商で高鍋藩の用達をしていたが、山崎闇斎派の学に通じていた。五代種弘は久右衛門を高鍋に呼び寄せてその教えを聴き、家臣にも傍聴させ、好学の風が藩中に広がありのりった。久右衛門は典医森心安の子有全、通称元士口を嗣子とし、京都に遊学させ、「南狩録」の著者味池修居に託して三宅尚斎に学ばせた。元士口は業成って藩主に近侍し、藩臣の子弟に教授した。闇斎の学が藩内に入ったのは内藤父子によってである。種弘は文武を奨励し、正徳三年(一かどけいこ七二ニ)十月一日、域内廉の屋敷に稽古所を設け、藩臣に武芸、兵法の稽古をさせた。享保十三年(一七二八)四月には典医山田玄随に医書の講義もさせている。医書の講義は種美の宝暦七年三月にも浜崎道伯にさせているが、藩内の多くの医者と、その家業を継ぐ子弟のために講ぜしーー千手長斎-4ーー佐一議直方「宅EU--一ーーー坂田芝山ーー山内員昌副首g,,ーー大塚一号満O印高鍋藩236(高鍋藩史話〕めたものであろう。六代種美は更に金穀を給し、みずから稽古所に臨み文武を奨励した。また、土地が中央から遠く離れた片田舎であり、文化ごびゅうも遅れているので、学術もあるいは誤謬があってはならないと心配し、うじちかおきかね財津十郎兵衛、大塚氏慎、千手輿欽、坂田諸安、内藤進らの英才を選びきもん学資を給して京師や江戸に学ばせた。その多くは山崎闇斎門(崎門)の著名な学者に師事し、それぞれ堂々たる学者となった。殊に千手輿欽(廉斎)はその弟子大塚太一郎観澗とともに全国でも著名な学者で、儒学系図(読史備要など)にも見える。幕末の志士、景岳橋本左内は、療おきなり斎の三男旭山輿成の門弟であるから、廉斎の孫弟子に当たる。史話」はその学統を右のとおり示している。稽古所の改革「高鍋藩そらい種茂は初め但徳学を修め詩賦を好んだ。詩文章を理解することは、それぞれの時代を理解することであり、政治を正しく行う力ともなるという古文辞学的考え方に立っていたが、明和三年(一七六六)十月、千手