ブックタイトルac_cho_0007_takanabe
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世久助同庄屋(役か)当地猶御仮所くじ取にて御付なされ候くじあたり人数覚。コ一名村(一七名、以下いずれも名省略)会百〉(佐)六野村(六名〉安王丸村(四名)伊左生村(三名)〔役か〉右人数、宝暦十二年壬午四月十日之朝、御仮所にてくじあたりにて帰宗仰付られ候。後日の為覚此の如に候。以上。井上平郎近第4編当所住持円静代ω倒二通とも住職の覚書で、同寺の系図によると、空山は十二世、円静は十五世である。以上の三つの文書に「百年以前」「凡六十年余」「凡百年余」とあるところから見ると、改宗を命じたのは、寛永十六年(一六三九)前後、二代種春の治世と見てよいであろう。しかし改宗の年齢が「十五以上」と「十五以下」では、処罰の意味が異なるようである。高鍋の記録のとおり「十五歳以上」ならば、「殴様に対して失礼千万、使僧の無断宿泊も言語同断。大人は他宗に改宗せよ。十五歳以下の子供に責任は無いからそのまま」という単純な処罰と見てよいであろう。しかし「十五以下は改宗」ということであるなら「真宗弾圧」の政策と見ることもできよう。改宗を命じた二年前の寛永十四年三六三七〉十月には島原の乱がぽっ発し、高鍋藩も幕命を受け、秋月又左衛門を大将として討伐に参加し、宗教一撲の強烈さを体験し、信長や家康などが一向一撲に苦しめられたことなどから、真宗教団に対し警戒していたであろうことは想像するに難くない。鹿児島藩のごとく、真宗と名の付くものはいっさい抹殺するという過激な弾圧ではなく、「十五歳以下改宗」という禁止の仕方は、その効果は数十年後に現れるという先を見越した処置である。十五歳以下の子供は、まだ仏や仏法についての関心は薄く、大人たちは自分たちが禁止されたなら一撲を起こすほどの抵抗をするかも知れないが、大人の信仰は制約されないのであるから、抵抗の仕様もなくうやむやに終わってしまう。そして時の経過とともに信者が減少し、五、六十年後には自然消滅の状態で、称専寺、覚照寺が嘆願書に書いているとおり「当時(現在)に至り無E那と相成り、寺立行不v申候」となり、光西寺の空山の願書のとおり「白一那曽て御座無く、退転仕る様罷成り候」となるのである。弾圧を弾圧と感じさせない極めて巧妙な真宗撲滅の政策であったと見ることができる。234光西寺の住職空山が願い出た元禄十二年は、第四代種政のときで、三名村からわずかに四名の帰宗が許されたにすぎなかったが、宝暦十一年の種茂初入部のときは、称専寺の第六世住職の了空が覚照寺へ呼びかけて帰宗嘆願書を差し出し、勝手次第帰宗候様となんらの制限も無く、信仰の自由が許されたのである。その翌年の宝麿十二年に、光西寺の住職了順円静が願出たときは、帰宗希望者がよほど多く、他宗への影響も考慮されたのか、抽選で=一O名の帰宗が許可されている。このように真宗に対する規制が全く解除されたのは、種茂の寛大さによるばかりでなく、江戸時代になってから平和が続き、一向一授の危険性もないということからであろう。もともと歓月氏と西本願寺は親しい間柄であった。種春の叔母(母のね妹)ヲタ子は西本願寺坊官下聞大弐に嫁いでいる。それだけに正念寺処罰には種々な交渉もあったに違いないが、今は知る由もない。真宗の帰宗が自由になってから七年目に当たる明和六年(一七六九)一一一月二十四日、西本願寺から高鍋に使僧が派遣されている。使僧となっいんもった護念寺の住職は称専寺に止宿し、紫巾紗五ツと乗馬の手綱三筋を音物