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概要

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この度、第十代将軍家治公の将軍宣下が行われ、我が本山の本願寺御門跡が関東へ下向し、且つ祖師親驚上人の五百年思にも相当するから上京するよう申して参りました。しかしいずれも貧寺で上京は困難であります。このように落塊いたしましたのは、次のような事情がございます。上江郷安蔵村に、私どもと同じ浄土真宗の正念寺がありました。正念寺は泉州界の慈光寺の末寺で、慈光寺からの巡見使が参り説法が行われました。これを聴聞したおおぜいの門徒が帰途につき、思いがけず御猟帰りの殴様の御一行に出会い、殴様の乗馬が驚くという出来事がございました。そのうえ、届け出もせず旅僧を止宿させたおとがめを受け、正念寺の住職は追放、領内の真宗一派の十五歳以上の信者は、ことごとく他の宗派へ改宗を仰せ付けられました。これは「一OO年以前」のことであります。現在は信者がいなくなり、寺が立ち行かなくなってしまいましたので、他の宗派の差し支えにならない程度で帰宗をお許しいただきたく存じます。(続実録、巻之一)これが嘆願書の内容であった。この願いは直ちに聞き届けられた。願出御免。両寺へ勝手次第帰宗候様、日一那中へ仰せ付けらる。藩政充実期の高鍋(向上)だんおち「旦那」は檀越ともいい、信者の意である。「百年以前」といえば寛文元年(二ハ六一〉より以前である。寛文元年は三代種信が家督を継いで二年目である。「以前」という表現から見ると、前代の種春のときであろう。第4章ところで、同様な事実を記録した古文書が光西寺(宮崎郡国富町三名〉にあったのを「親驚教団弾圧史」(福永勝美著)に掲載されている。光西寺の住職福永慧純師に右の古文書の閲覧を請うたが、今は失われて無いという。やむなく同書掲載の文書を転載する。光西寺文書は元禄十二年と宝麿十二年のものがあるが、元禄十二年のものを記す。ω御領内真宗一派寺々旦那之儀、十五以下は残らず他宗に相成候様に仰付られ、皆々他宗に罷成、凡六十年余に成申候故、日一那曽て御座無く、退転仕様に罷成り候。之に依り先祖旦那帰参御赦免極られ下され候様に願い奉り候。帰宗仰付られ候時は、元禄十二卯年十二月、三名村代より久兵衛、太郎左衛門、蔵之丞、杢右衛門、右之人数仰付られ候。秩月佐渡守御役人中御家老隈江五郎左衛門泥谷次太夫(山か)小坂六郎左衛門小田助之進御奉行小田彦左衛門(隈江)圧太夫当地御代官久場幸左衛門(衛〉庄や十兵ヱ当時住空山倒御領内真宗一派寺々旦那之儀、先年十五以下は残らず、他宗に相成候様仰付られ、皆々他宗に罷成、凡百年余に成申候故、旦那曽て御座無く、寺退転仕様に罷成候。之に依り先祖旦那帰宗御赦面極られ下され候様に願い奉り候。先祖日一那帰宗仰付られ候殿様、秩月山城守様御家老隈江五郎左衛門手塚甚五左衛門小田岡右衛門泥谷承左衛門岡本八郎左衛門御用人内田六郎左衛門御奉行大目付当地代官三泥中好谷村守(要元膳編入右e;衛小門田藤兵衛金丸233田村織右衛門同下代古屋彦四郎同圧屋