ブックタイトルac_cho_0007_takanabe
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世というのが、その要旨である。江戸の一一鹿足軽は言業や江戸の地理に明るく、給金も安いところから一一握ったものと思われる。制度的な老人福祉はこの時代にはまだ見ることはできない。しかし、種茂は安永二年(一七七三)十二月福嶋の農民五左衛門の母が百歳になったのを祝福し、生涯一人扶持を給することにした。老婆は感激し手製の麻糸を献じたという(続実録、巻之三)。これから後、百歳になった者には必ず生涯一人扶持を贈ることになり、廃藩まで続けられている。近老人福祉第4編孝子節婦に褒賞を贈ることは現代では福祉とは異なるが、藩政時代には福祉の一つであった。種茂は安永四年十一月、福嶋坂本の士口左衛門の妻ほか七人の者を、老母への孝行、あるいは貞節、または極めて実直勤勉ということで、生涯赤米を年二俵、または五俵を支給して表彰している。これが先例となり、廃藩に至るま褒賞と高山彦九郎岩下家の刀鍛冶場でこれらの表彰が行われている。種徳もしばしば表彰を行っているが、その一つに、寛政元年(一七八九)十月の、細工方所属の万鍛冶岩下又五郎とその養父貞七に米三俵を贈っての表彰がある。貞七の父茂兵衛は米寿に達したが、早く老妻を失っていた。貞七らはこれに孝養を尽くして至らざるなく、世のヵ払円であるというのである。たまたま同四年間二月、寛政の三奇人の一人高山彦九郎、が、米良山を越えて高鍋を訪れた。彦九郎は十三日、弾琴松・鵜戸大明神を訪れた後、道具小路の鍛冶小路に住む貞七を訪れ、船橋則賢卿の書き物を贈り、吸い物と酒のもてなしを受け、九一歳の茂兵衛も会っている。日向各地を回って、七月二日再び高鍋を訪れた彦九郎は、翌三日明倫堂教授千手八太郎親子、大塚観澗に会ぃ、岩下貞七の家に国分たばこを手土産に立ち寄り、岩下又五郎盛光に八寸の石火万を作ってくれるよう依頼している。四日には大塚観澗と座論梅を訪ね、観澗が漢詩を、彦九郎正之が歌を詠んでいる。彦九郎は五日、明倫堂へ歌を寄せ、玉鉾の道を学びの窓ならばわれをも人の類と知るらむ正之と書し、観澗の父、七郎次氏慎あてに贈り、六日延岡へ向かっている。岩下又五郎の鍛冶小屋は、幕末のころのままで現存している。近く歴史資料館のかたわらに移転し保存されることになっている。232第三節宗教政策と真宗弾圧解除宗教政策について見るところがなかったが、種茂の治世に、浄土真宗の取り扱いについて、注意すべき記録がある。高鍋藩は、幕府の政策に従い、吉利支丹は邪宗門として禁じ、また天台宗、日蓮宗も禁止し、これらの宗派の寺院は一か寺もない。浄土真宗は一時弾圧を加えたのではないかと思われる節がある。七代種茂は家督相続の翌年宝暦十一年(一七六一)初めて封地高鍋に入部したが、その四か月後の九月十日に、城下町の称専寺と平原の覚照寺の住職が連名で、大要次のごとき嘆願書を差し出した。